KIB: kurogane in black

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文鮮明はソ連・共産主義を終わらせたのか?

ソ連ゴルバチョフ大統領と宗教者達

本投稿は以前から統一教会では「華々しい実績」として必ず例に出す「文鮮明ソ連ゴルバチョフ大統領と会い、共産主義を屈服させた」という言説について、改めて確認するためのものとなります。

統一教会の信者なら、絶対の絶対に何度も見たことのあるこちらの写真ですね。

 

https://twitter.com/KuroganeInBlack/status/1613517152463777792?s=20&t=ldXblQ4Zew0RqEVNJDW8Vw

 

統一教会は「友好団体」として勝共連合もあり、共産主義とは本質的に対立しているにも関わらず、その頂点にあったソ連ゴルバチョフ大統領が文鮮明と面会したということは、当時の信者にとってはまさに驚天動地の「摂理」であり、天が動いた!とも言うべきものでした。

それで嬉しくなった統一教会はこんな本まで出したほどです。

タイトルがすごい。

文鮮明師こそ共産主義崩壊の仕掛人

www.hmv.co.jp

本当に文鮮明共産主義崩壊の仕掛人だったのかということは、後ほど検討することにしますが、その前に、宗教者としてゴルバチョフ大統領に会ったことが実績のように統一教会の信者は語るのですが、本当でしょうか?

ゴルバチョフ大統領に面会した宗教家は、文鮮明だけではありません。

ゴルバチョフ大統領が面会したのは統一教会だけではない

しかし、上記のツイートでKDさんのツイートを見た創価学会の方が同じような写真はうちでもあると言い出しましてね。実際、池田大作ゴルバチョフ大統領が抱擁している写真をカバーにつかった本が出ています。

 

それどころか、英語では池田大作ゴルバチョフ大統領の共著書まで出版されています。

https://twitter.com/KuroganeInBlack/status/1613518539578822658?s=20&t=ldXblQ4Zew0RqEVNJDW8Vw

北朝鮮金日成との会談

文鮮明は1990年4月にソ連ゴルバチョフに会い、その翌年、1991年11月30日に北朝鮮を訪問し、12月6日には金日成主席と会見しています。こちらについては、筑波大学の総長を務めた福田さんが書籍をあらわしています。

 

www.hmv.co.jp

北朝鮮はいまだに金王朝の独裁体制を維持しており、内部文書の公開もされていませんので、金日成文鮮明会談の背景は我々には知りようがありません。

一方のゴルバチョフ大統領は、彼の時代にソ連は崩壊して時代が変わり、その後、内部文書も膨大に流出したり西側のジャーナリストが積極的な調査を行っていますし、何よりゴルバチョフ本人がいくつもの著作をあらわしていて、1990年4月前後のソ連を取り巻く事情と彼がその時何を考えていたのかを明確に知ることができます。

 

これらの著作を確認することで、ソ連およびゴルバチョフ大統領、そして当時を取り巻く国際情勢の中で、文鮮明ゴルバチョフの会談に意味があったのか?

統一教会の幹部が「文鮮明師こそ共産主義崩壊の仕掛人」と自画自賛するような実績があったのかを振り返ってみたいと思います。

 

ゴルバチョフの1990年前後

今回、以下の二冊の本を参考に調べてみた。

honto.jp

honto.jp

前者はゴルバチョフ本人による自伝。後者は、ウィリアム・トーブマンによる著作で、彼はアメリカ合衆国政治学者・歴史学者。専門は、ロシア(ソ連)政治外交史であり、フルシチョフに関する書籍(邦訳は出版されておらず)でピューリッツァー賞を受賞しています。

後者「ゴルバチョフ その人生と時代」の膨大な索引を眺めるだけで、どれだけ緻密に資料を集め、直接関係者にインタビューをして声を拾っていったかが分かる著作となっていました。もし当時の関係者の中に「文鮮明の登場がソ連の崩壊に決定的な役割を果たした」という人がいれば、それは必ず記載していたに違いないだろうと思わされます。

 

1)文鮮明の名前はでてくるか?

この両書籍は、もちろんそうされているのが当然なのですが、登場する人物の検索もついています。

まず簡単なレビューとして触れておくと、どちらの著作の人物検索にも文鮮明の名前は登場していません。(池田大作の名前もありませんでしたが。)

統一教会の名前も(そして創価学会の名前も)見当たらないのは言うまでもないですね。というより基本的にどちらの書籍にも日本人を含むアジア人の名前は見つからないのですけれども。

 

また、第11回世界言論人会議(文鮮明ソ連を訪問した会議)の名前も見つからなければ、こちらの統一教会側で作成したと思われるページに記載の「主要な講演者」としてリストされている中に、索引で合致している人は、もしかしたらその一人が該当する人物かもしれないけれども、それ以外は基本的に見つからないようです。

 

www.telepathy.asia

もしかしたらその一人が該当する人物かもしれないけれども」と書いたのは、「グラチェフ・ソ連共産党中央委員会国際部長」と書かれている人物のフルネームが記載されていないのですが、「ゴルバチョフ その人生と時代」には「アンドレイ・グラチョフ:中央委員会国際部副部長」としては記載されており、写真を比較すると似ているようにも見えるからです。

写真はこちらのリンクをクリックしてご確認ください。

www.meer.com

世界言論人会議を開催していたのに参加者かつ主要講演者のフルネームや肩書もまともに付けられないのはいかがなものか?という細かい指摘はさておき、上記の「主要講演者」のリストと、「ゴルバチョフ その人生と時代」の登場人物一覧を突き合わせた結果は以下の通りです。

 

表にして記載したのですが、スマホからだとうまく表示されなかったので、まず先に画像にしたものを添付しておきます。

 

第11回 世界言論人会議 主要な講演者のリストと「ゴルバチョフ その人生と時代」の登場人物索引に記載されている人名との対照確認表

第11回世界言論人会議 主要講演者

以下は、上記の画像と同じものですがスマホでは表示されず、白いスペースが続くだけになっています。お手数ですがスマホの方はスクロースしてみてください。

 

登場人物との一致 氏名 肩書
x ニコライ・シスリン ソ連共産党中央委員会外交顧問
x パベル・ブニチ ソ連最高会議経済改革委副委員長
x アガン・ベギャン ソ連科学アカデミー経済学術部長
グラチェフ ソ連共産党中央委員会国際部長
x アレン・ニューハース 「USAツデー」紙創始者
x アーサー・ハートマン 前駐ソ米大使
x リチャード・パイプス ハーバード大学教授
x アレクシ・ヤブロコフ ソ連最高会議環境統制天然資源活用委・副委員長
x 松本十郎 防衛庁長官
安倍晋太郎自民党幹事長代理)
x 谷藤正三 北海道開発庁事務次官
x 村井勉 JR西日本会長アサヒビール会長
x 不破敬一郎 国立公害研究所所長
x 磯村尚徳 NHK放送局特別主幹
x 永井清 三菱総合研究所調査部長
(中島正樹・同相談役代理)

 

アンドレイ・グラチョフ:中央委員会国際部副部長」はちなみに、ゴルバチョフの報道官として1990年前後には頻繁に名前が登場しますが、世界言論人会議も文鮮明の名前も出てこないのは上述の通りです。

 

統一教会が大騒ぎし、また自らの大功績として掲げる「ゴルバチョフ大統領との面会」については、少なくとも本人の著作および第三者である研究者の調査範囲にはまるで言及されていない、という事実は重いと考えます。

統一教会お得意のマスコミは偏向しているから、という批判について

このような書き方をすれば、この世のマスコミや研究者は偏向しているとか、共産主義思想に毒されていて、統一教会の実績を正しく評価しないと言い出す人がいるのですが、こういう不細工な主張はそろそろやめた方が良いのではないでしょうか。

政治学者・歴史学者」を名乗る研究者が、厳然としてそこにあるはずの明確な事実を無視することは、自分の研究実績に傷をつけることになります。

 

また研究発表について文句をつけるのなら、統一教会の「文鮮明師こそ共産主義崩壊の仕掛人」をしかるべき学会で評価してもらったらよいのではないかと思いますが。

 

2)1989年から1991年のソ連および特に東西ドイツの動向

我が人生 ゴルバチョフ自伝」および「ゴルバチョフ その人生と時代」の1990年前後の記録を読んで明らかなのは、ゴルバチョフはなんとか共産主義国家を維持しようとし、そのために心血を注いだけれども、共産主義自らの間違いで失敗せざるを得なかった、という事です。

1989年から1991年にかけてのソ連は、崩壊しつつある大国が最後のあがきを示している時期でもあり、激動の時代と言える。このため、この時期だけでも膨大な紙幅が必要になる。

しかし、その時代を追いかけたいわけではないので、ゴルバチョフが書記長に就任後のソ連のあゆみと、特に1990年4月の世界言論人会議の前後において、ソ連を最も悩ませたテーマに絞って年表にしたのが以下の表になります。

 

1990年4月前後のソ連を取り巻く重要課題

こちらも同様に上記の画像と同じものですがスマホでは表示されず、白いスペースが続くだけになっています。お手数ですがスマホの方はスクロースしてみてください。

 

  ドイツ ソ連
1985年     ゴルバチョフ 書記長選出
1986年 4月   26日 チェルノブイリ原発事故発生
1987年
11月   言論・報道の自由を認めるグラスノスチ(開放)政策、経済の意思決定を分散して効率化を図るペレストロイカ(再構築)政策
    グラスノスチは、一連の改革はソ連邦民主化に大きく貢献した一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部による共産貴族と呼ばれるほどの豪華絢爛な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、最終的にはソ連解体へと国家を進めていく結果となった。
1988年 10月   ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任し、国家元首となる。
1989年
11月 9日 - ベルリンの壁が崩壊する。  
12月 1日 - 東ドイツ憲法第1条からドイツ社会主義統一党(SED)による国家の指導を定めた条項が削除され、SED一党独裁制が終焉。  
1990年
3月 1日 - 西ドイツで、東ドイツの国有資産接収を目的とした信託公社(ドイツ語版)が設立される。
18日 - 東ドイツにて自由選挙が実施され、ドイツ統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利する。
15日 ‐ 複数政党制と強力な大統領制を導入(これまでの書記長制を廃止)する憲法改正法案を人民代議員大会で採択
同日、人民代議員大会において実施された大統領選挙において、ゴルバチョフは初代ソビエト連邦大統領に選出
4月   10日~13日 第11回世界言論人会議開催。ゴルバチョフと会談
5月 5日 - 東西ドイツと米英仏ソの6か国外相会議が開催される。
18日 - 西ドイツと通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約を調印する。
 
7月 1日 - 通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約が発効し、西ドイツの通貨ドイツマルクが東ドイツに導入される。
17日 - 6か国外相会議で、統一ドイツの北大西洋条約機構NATO)への加入を確認する。
23日 - 東ドイツの県が廃止され州が復活される(新連邦州)。
 
8月 23日 - 東ドイツの人民議会で東ドイツ5州の西ドイツ加盟が決議される。
31日 - ドイツ再統一条約が調印される。
 
9月 12日 - ドイツに関する最終規定条約が調印される。  
10月 3日 - 西ドイツ基本法23条に基づき、東ドイツの州が西ドイツに加入する。  
1991年
4月   ゴルバチョフ大統領、ソビエト連邦最高指導者として初めて日本も訪れ、海部俊樹首相(当時)と日ソ平和条約の締結交渉や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。
8月   19日、クリミア半島の大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長、副大統領、そして首相らの「国家非常事態委員会」を名乗る保守派が起こしたクーデターによって、妻のライーサや家族、外交政策担当大統領補佐官ら側近たちとともに別荘に軟禁された。
ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワでエリツィンや市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。(ライーサ夫人は救出後に「軟禁中、『ソニー』が一番役立った」とコメントしている。)
クーデターは失敗したが、首謀者がゴルバチョフの側近だったことで、ますますゴルバチョフの支持が低下した。
12月   ゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト連邦からの脱退を進めたことにより、ソビエト連邦は崩壊した。12月25日にゴルバチョフはテレビ演説で「私は不安を持って去る」と大統領を辞任し、結果的にソ連時代唯一の大統領となった。

 

ドイツ再統一」および「ミハイル・ゴルバチョフ」の該当年月の記載から抜粋したもの。

 

この表から明らかなように、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。

ベルリンの壁の崩壊は象徴的ではありましたが、東西ドイツがどうなるのかという事については共産主義世界の運命を左右する問題となっていたはずです。

 

そのような問題に頭を悩ませていたことは、著作2点でもたっぷりと記載されていますが、その間に言論人会議がソ連およびゴルバチョフ大統領の関心の種となりえたのでしょうか?

 

答えはこれらの本に書いてある通り、と言いますかこの本には書かれていないことがそれを示している通りとでも言いましょうか。どこかの宗教団体がお金をだして開催した言論人会議のテーマについて沈思黙考して、それを熟慮している状況にはなかったのです。

 

本投稿では1990年4月の前後に焦点を合わせて抜粋しての記事となっていますが、チェルノブイリ原発事故以後、ソ連を悩ませる問題はそれ自体がソ連を崩壊へと導いたことは読み取れましたが、そこに極東発祥の宗教団体の勝共やらの入る隙間はとてもなさそうです。

 

第11回世界言論人会議に参加し、「ゴルバチョフ その人生と時代」の両方に登場していそうなアンドレイ・グラチョフには2005年6月28日にプーシキノで直接インタビューしていますし、上述の通りグラチョフはゴルバチョフの報道官でもあったのですから、文鮮明との出会いが重要な意味があれば、その点を言及していたことは想像に難くありません。

また、巷間言われていました「ゴルバチョフの自伝には文鮮明の名前が登場しない」も確認済みです。

 

まとめ

現役信者が何をどう信じようが自由ですが、少なくともゴルバチョフ本人、そしてソ連・ロシアの政治外交史の膨大な調査に基づく著作に、統一教会および文鮮明が重要な役割を果たしたという痕跡は認められませんでした。

 

また統一教会が「世界言論人会議」という名目でモスクワに行き、ゴルバチョフにあったということは事実ですが、ゴルバチョフおよび研究者に文鮮明師こそ共産主義崩壊の仕掛人と認識されるようなことは何もありませんでした。

 

統一教会の信者もゴルバチョフと会った!共産主義を屈服させた!と喧伝することには忙しいですが、具体的に共産主義ソ連崩壊にどう働きかけたのか、またゴルバチョフと会うことで、ソ連の運命が何か変わったか説明できるのでしょうか?

 

少なくとも上記の2冊を読んだ限りでは、統一教会の出る幕は何もなかったようですし、その後、統一教会が関与したことでソ連の15の共和国やロシア共和国本体が何か変わったのか?


ゴルバチョフ大統領と会いました!ということが重要なのではなく、その後どうなったのかが重要なのではないでしょうか?

 

残念ながら、この点について統一教会の信者が熱心に語るのを見たことはありませんし、二つの著作にもそれらの影響や痕跡を確認することすらできませんでした。

 

関心がおありの方は、各自図書館で借りるなどして、関連書籍をご覧ください。

 

本稿ではゴルバチョフ文鮮明に焦点をあてて描いていますが、ソ連の崩壊は膨大なシステムが壊れていくものであって、文鮮明ゴルバチョフ一人と会ったことでどうなるといった類のものではなかったのです。

 

今後、統一教会の信者が彼らの実績としてゴルバチョフと会ったと持ち出しても、相手にする必要がないと考えます。

 

「この内容は誤りだ!偏向だ!」とおっしゃりたい現役信者は、ご自分で調べてくださいませ。超一流の研究者の調査、論文より信頼性のある内容が提出できるとは思えませんけれども。

 

本投稿の続編

続編を投稿いたしました。

こちらの記事もご覧くださいませ。

kib.hateblo.jp

 

以上

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