本投稿は、以下の二つの投稿の続編にあたります。
統一教会の輝かしい実績:ソ連崩壊と信教の自由化への貢献
統一教会が「輝かしい実績」として自画自賛してやまない、1990年4月にモスクワで開催された世界言論人懐疑で文鮮明がゴルバチョフ大統領(当時)と会談したことがソ連崩壊の契機となったというものがあります。
この主張については、こんなタイトルの書籍まで出版しています。
しかし、こちらの資料および、上記の二つの投稿を通して、それは統一教会しか主張していない、内部向けのプロパガンダにすぎないことを述べてきました。
詳しくは、前項および二つのブログ記事をご覧頂きたいのですが、これらの資料の要点は、統一教会が主張する「文鮮明-ゴルバチョフ会談」が、ゴルバチョフの視点や研究者の視点では一切登場しない事をまず明かにしています。
さらに、ソ連崩壊につながったのは「ワシントン・タイムズ」でレーガン大統領を当選させ、彼がスターウォーズ作戦を展開したために、ソ連は軍事費が喉頭して経済を圧迫し崩壊したと主張している一方、北朝鮮にはGDPのおよそ25%にも及ぶ資金を北朝鮮に提供した事は矛盾しており、結果としてソ連は崩壊しているものの北朝鮮は未だに延命して、東アジアの問題として居残り続けている事を指摘しています。
さて本項ではさらにソ連経済自体の成長と発展状況を振り返ることで、ソ連崩壊は共産主義に固執したソ連政府および共産主義体制が自己矛盾をきたして内部から崩壊したのであって、日本人信者からお金を巻き上げて西側の政治家にばらまいて「共産主義と叩く勝共運動」を展開したこととは無関係であることを示したいと思います。
ソ連経済の自己崩壊
ソ連時代の歴史は我々にはなじみが薄く、よく分かっていない内容が多いのですが、最近は便利な時代になり、概説を眺めるだけならちょうど良いものがいくらでも提供されています。
学術的な検討をするためには、ウィキペディアでは話にならないことは踏まえた上で、我々は専門的な議論をしたいわけではなく、統一教会のザルな主張がデタラメであることを確認するために必要な情報を集めています。
この論理展開が不足という信者がいるなら、統一教会の主張になってソ連の崩壊の各種の出来事に統一教会がどのような働きかけを行い、それが功を奏したことを示して頂きたい。
ソ連の経済史
ということで、ソビエト連邦の経済という項目でまとめられた内容がありました。
この「ソビエト連邦の経済」を各時代区分ごとにまとめたのが下表です。
以下は上記の表のテキスト情報。スマホでは表示されないケースがあるので、画像とテキストと両方を記載しました。
スマホではしばらく空白のみが表示される方も、さらに下の方にスクロールいただくと、続きの文章が表示されます。
時代 |
年代 |
内容 |
備考 |
戦時共産主義 |
1917~1920 |
企業の国有化、貴族・資本家の資産没収、さらに飢餓輸出によって数百万もの餓死者を出す。 |
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ネップ期 |
1920~1928 |
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第一次5カ年計画スタート |
1928~1939 |
計画経済開始。ノルマなどお馴染みの言葉も生まれる。世界から孤立した経済体制のため、世界恐慌を免れる。スターリンの圧政を知らない西の知識層から理想化される。 |
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1939~1945 |
大きな犠牲を払い、大戦勝利。東欧に衛生国家を誕生させるが、後に大きな負担を抱えていく事になる。 |
戦後、日本人を国際法に違反して強制労働に動員 |
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戦後復興期 |
1945~1961 |
計画経済再開。重工業・軍事産業に重点をおき、民生は後回しに。ガガーリンが人類初の宇宙飛行をしたのも1961年。ソ連の未来は明るいと誰もが思った事でしょう。 |
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リーベルマン論文とコスイギン改革 |
1962~1968 |
経済学者リーベルマンが企業や個人も利潤追求が必要との論文発表。それを受けてコスイギンが改革を進めるも内容は限定的。プラハの春で改革後退。 |
1968年 勝共連合発足。 彼らの活動とは無関係に、共産主義体制に影が差している。 |
停滞の時代 |
1968~1985 |
1970年代は石油危機で莫大な利益をあげるも発達に寄与せず。西側の機械、穀物や奢侈品の輸入に浪費されて新規事業の開拓や技術開発停滞。消費財や食料の輸入が膨らみ対外債務が急速に増大。東欧への安価な天然資源供給や発展途上国への経済支援は政治的・外交的理由で継続。1979年にはアフガン侵攻開始。軍事費膨張で西側との関係悪化。 |
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ペレストロイカ以後 |
1985~1991 |
赤色に着色して強調したように、勝共連合が韓国で産声を挙げたのは1968年。
それよりも6年も前に、リーベルマンという経済学者が「ソビエト経済においても企業や個人の利潤追求を重視し、経済運営の分権化や市場原理の限定的導入による生産性の向上を提唱」しています。
これは、共産主義による経済運営がうまく行っておらず、改革が必要であることが認識されていた事を意味します。
ルイセンコ論争という「共産主義の呪縛」
ここで、ルイセンコ論争についても触れておきたいと思います。
上記の項目からの抜粋になりますが、これがまたとんでもない学説でありながら、スターリンが支持したせいで、その後数十年もソ連の科学・農業政策に絶大な負の影響をもたらすのは言うまでもありません。
ルイセンコ主義の疑似科学的発想は獲得形質の遺伝性を仮定していた。ルイセンコの理論はメンデル遺伝学と「遺伝子」の概念を否定し、自然選択を否定することでダーウィン進化論から逸脱した。支持者らは、他にも多数あるが、ライムギがコムギへと、コムギがオオムギへと転換できる、雑草が穀物へと自発的に変容する、「自然選択」に対立するものとして「自然協力」が観察された、と偽って主張した。ルイセンコ主義は育種や農業において並外れた進歩を約束したが、それらが起こることはなかった。
ヨシフ・スターリンはこの政治運動を支持した。3千人以上の主流生物学者が投獄または解雇され、ルイセンコの科学的な反対派を抑え込むために数多くの科学者がルイセンコが推進した運動の一部として処刑された。
このルイセンコの学説は1934年に発表され、スターリン政権下で「マルクス・レーニン主義の弁証法的唯物論を証明するものだ」とされ、メンデルの遺伝学はブルジョワ理論として否定され、その後の科学の発達によって DNAの構造や機能が解明されて初めて支持者がいなくなり、1964年のソビエト科学アカデミーで議論と投票が行われて、ようやくこの学説は途絶えたと書かれています。
この学説が発表されてからソビエト科学アカデミーで否定されるまで30年間。
スターリンが「弁証法的唯物論を証明する」というトンデモ理論で支持されたせいで、他の誰も否定できなくなり、共産主義世界では自然すら共産主義に屈服するかのような学説が30年もの間、政策まで影響したわけです。
30年。統一教会が1992年に大騒ぎされてから、昨年7月8日の銃撃事件で再度、注目を浴びるようになるまでの期間とほぼ同じです。
その間、科学的な理論が「主義主張に屈する形」で否定されてきたマイナスの影響がどれほど大きいか、なんとなく想像できますね。
ソ連経済に話を戻しますが、リーベルマン論文を受けてコスイギンが経済改革を主導しますが、この経済改革は限定的でしかなく、さらに勝共連合が誕生した1968年にはプラハの春 によって、限定的な経済改革ですら後退してしまいました。
このプラハの春の影響で経済改革も後退した結果、ソ連経済は「停滞の時代」を迎えます。つまり、1968年に誕生した勝共連合がソ連に何らかの影響を及ぼす前に、自分たちのイデオロギーによって自己崩壊していった事が良く分かります。
ここから、1981年のレーガン大統領登場前、すなわち、統一教会が燦爛たる実績と自慢してやまないワシントン・タイムズによる、あのレーガン当選前までのソ連経済は「停滞の時代」と描写されていますが、内情を見るにつけ、「停滞」どころか「崩壊前奏曲」と呼ぶのが相応しいでしょう。
停滞の時代(「ソビエト連邦の経済」より転記:強調は管理人)
コスイギン改革の挫折後、1970年代はソ連も軍事的に関与した中東戦争による2度の石油危機で世界最大の産油国として莫大な外貨を獲得できたが[2]、西側諸国からの機械、穀物や奢侈品の輸入に浪費されて新規事業の開拓や技術開発がほとんど進まず、西側と製品の質の点で大きく水を開けられた。また、レオニード・ブレジネフ政権の長期化で共産党内の汚職が進み、国有企業は帳簿上の生産数と実態との乖離が大きくなった。フルシチョフ失脚の直接の原因となった農業問題でも小麦やライ麦、大麦の生産量は世界最高だったものの、70年代からの凶作と旱魃で大量の穀物を北米から緊急輸入する必要が生じ、国際市場で大量の穀物買い付けを行って高騰させたことは大穀物強盗と呼ばれた[3][4]。これが冷戦における両国の力関係にも影響を与えた。この時期には環境破壊も深刻化していったが、官僚制で硬直化した政府は有効な対策を立てられなかった。
この時期は、消費財や食料の輸入が膨らみ対外債務が急速に増大する一方、東ヨーロッパ諸国への安価な天然資源供給や発展途上国への経済支援は政治的・外交的理由で続ける必要があり、政府にとっては大きな負担になった。1979年にはアフガニスタン侵攻を開始し、軍事費の膨張と西側諸国との関係悪化はソビエト経済を一層苦しめた。
1982年、ブレジネフの死でソビエト連邦共産党書記長になったユーリ・アンドロポフは国内の綱紀粛清を図り、ウォッカの値上げによる酒類追放で労働者の生産性向上を目指したが、本格的な経済改革に着手する前に死去した。その後のコンスタンティン・チェルネンコは、元来保守派である上に病弱なこともあり、再びブレジネフ時代のような経済無策に陥った。
1979年のアフガン侵攻前に既に経済的に大きな負担を抱えており、アフガン侵攻で西側との環形が悪化した時もまだ統一教会が主張するレーガンは登場していません。
統一教会の主張、レーガンが共産主義崩壊の切り札だったなら…
ここで統一教会の主張を振り返っておきます。
統一教会はアメリカでワシントン・タイムズを創刊し、保守派のレーガンを応援して大統領を当選させ、彼がスターウォーズ作戦を展開した結果、ソ連の軍事費負担が増大して崩壊に至った、ということでした。
この主張が正しいなら、レーガンの登場およびスターウォーズ作戦で急激に悪化したということになっていなければなりません。
また、レーガン大統領のスターウォーズ作戦がそれほどソ連崩壊に影響を及ぼしたのであれば、仮にウィキペディアレベルとは言え、そこにレーガンの名前があるはずです。
しかし、この「ソビエト連邦の経済」のどこにもレーガンの名前すら登場しません。
果たして、統一教会の主張する「レーガンのスターウォーズ作戦がソ連崩壊につながった」と言えるのでしょうか?
また、ブレジネフの後にアンドロポフ、チェルネンコと続いた短命政権は、統一教会のせいでそうなった訳ではありませんし、ゴルバチョフの登場は、ソ連の共産主義体制維持にはもう遅すぎたのです。
その後、ゴルバチョフが登場して、必死に経済改革(ペレストロイカ)と、政治改革(グラスノスチ)を行いますが、それがかえって共産主義体制の崩壊に拍車をかけることになりました。
ここでも、レーガンのスターウォーズ作戦とはなんの関係もありません。
参考まで、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチについても抜粋しておきます。
ゴルバチョフの登場とペレストロイカ/グラスノスチ
1985年にゴルバチョフが登場し、彼は直ちに「硬直した政府を立て直すため、経済面での改革を進めるペレストロイカを行いますが、1986年のチェルノブイリ原発事故の対応が、共産主義による縦割り行政の弊害で後手をうち、適切な対策をとれなかったことで、グラスノスチも断行します。
ソビエト連邦共産党による一党独裁制が60年以上も続いたことにより、硬直した政府を立て直すため、1985年に共産党書記長(最高指導者)に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった。
元々は経済面のみの改革だったがチェルノブイリ原子力発電所事故の影響で政治面の改革も行うようになる。 (ペレストロイカより抜粋)
ソ連の信教の自由について
統一教会の信者は、何の関係もない出来事を並べ、それが神の御業などと言いだしたりすることが良くあります。
こっちの方がいいかも。
— ドラ猫 (@ccrowats75) 2023年5月1日
ちゃーんと反共のこと(キリスト教系自由主義vs共産主義)も網羅されてますね。https://t.co/RS4m2EMK3Q
ドラ猫さんに紹介いただいたこちらのサイトに、ソ連と共産主義についておおよそつぎのような事が記載されています。
1990年10月にロシアで成立した『信教の自由に関するロシア連邦共和国法』は、同年4月にゴルバチョフと文鮮明との対話で、文鮮明から「信教の自由を許可するように」と訴え、それが受け入れられたからではないかと推測される
しかし、こんな荒唐無稽な話はありえません。
どの国がいきなりやってきた人から4月に「信教の自由を」と言われ、それから法制度に着手して半年後に法律化できるでしょうか?
当時のソ連は共産主義で宗教は迫害されてきたとは言え、988年からの伝統を持つロシア正教が残っていました。
ゴルバチョフ大統領が仮に文鮮明との会談で感銘を受けたとしても、ロシア古来の宗教であるロシア正教を無視しいきなり宗教法を成立させる事があるでしょうか?
(反語の「か」)
ここでソ連の宗教史を調べてみると、日本ではソ連の宗教史の専門家として廣岡正久先生がいらっしゃいました。
廣岡先生は、いくつもソ連の宗教に関する論文を発表されておられますが、こちらの論文にはこのように記載されています。(強調は管理人。以下同じ)
こうした事実を考慮すれば、ロシアの信教の自由は、ゴルバチョフ政権下の1990年10月1日に発効した『信仰の自由および宗教団体に関する法律』に始まるといえるであろう。ロシア革命以来70有余年にわたって“反宗教”を国是としてきたソヴィエト体制下で成立を見たこの法律は、ゴルバチョフ政権の自由化政策の下で基本的にはすでに認められていた信教の自由を法的に確認し、成文化したものであり、何よりもまず第一に宗教信仰の自由の保障を強調していたという点で画期的な法律であった。
これらの記載からも読み取れるように、1990年10月に『信教の自由に関するロシア連邦共和国法』が成立した背景として、ゴルバチョフのペレストロイカ、グラスノスチがあり、それら自由化政策の下で「基本的に認められていた信教の自由」を法的に確認、成文化したものと書かれています。
ここで少し、共産主義体制下のロシア正教の活動について説明されたこちらの論文では共産主義政権による宗教弾圧に対し、何十年もかけてロシア正教としての信教の自由の獲得に向けて努力してきた足取りが描写されています。
ここで思い出してほしいのですが、上述の通り988年にロシアはキリスト教を受容し、ロシア正教に発展していきました。
そこから1000年経てば1988年。奇しくもソウルオリンピックの開催年でしたが、その年にソ連で何があったか?上記の論文では以下の記載が見つかります。
1988年、ゴルバチョフのペレストロイカ政策の下でキリスト教受洗千年祭を盛大に祝った頃、ロシア正教会が目覚ましい復活振りを示したこと は紛れもない事実であった。
このキリスト教受洗千年祭については、さらに同じく廣岡先生の別の論文で、次の記載が見つかります。
ところでゴルバチョフ政権のペレストロイカとグラースノスチは, 大衆的なナショナリズム運動にとどまらず, クレムリンの宗教政策に,さらには正教会内部にも影響を及ぼさずにはすまないように思われる。1988年6月, モスクワを中心にソ連各地で催された正教受洗千年祭は, ソヴィエト社会における正教会の復権を内外に強く印象づけたばかりか, クレムリンの宗教政策の変化をも覗せたという点でも特筆すべき出来事であったといわなければならない。実際千年祭の祝典の盛大さもさることながら, これを祝福するかのようにゴルバチョフ政権が示した一連の譲歩とサーヴィスは, ロシア正教会にたいするクレムリンの基本姿勢の変化を実証するものであったといえよう。
これらの記述を読んで、ゴルバチョフがロシア正教会に対する基本姿勢の変化の表れとして、2年をかけて1990年に『信教の自由に関するロシア連邦共和国法』が成立したというなら理解が可能でしょう。
1990年4月に文鮮明という男が龍壺をもって現れ、信教の自由を求めてから半年で、それまで数十年間徹底的に弾圧してきた「信教の自由」に関する法律をぽっと通せるわけがないのですから。
まとめ
上記の通り、ソ連の経済および宗教史を概観しただけでも、ソ連が崩壊したのは共産主義というドグマに縛られて、合理的な政治経済政策が取れなかったこと、すなわちワシントン・タイムズで応援されて当選したレーガン大統領の貢献はほとんどありません。
ソ連経済が崩壊しそうなタイミングで登場した、タイミングに恵まれた大統領が、反共主義者であったというだけです。
また、実際にソ連の崩壊に対して有効な施策を統一教会が取れた事例もありません。
勝共連合が成立した1968年には既にソ連内で経済が停滞していることはリーベルマン論文でも取り上げられ、それに基づく改革を進めようとしたにもかかわらず、プラハの春事件によって東欧諸国を鉄の掟で縛るために、経済改革を進めることができなかった弊害が、そこから20年かけて顕在化しただけです。
また、1990年4月にモスクワで世界言論人会議が開催されたことは事実ですが、そこでゴルバチョフと会談した結果、ソ連に信教の自由がもたらされたということも、現実的にはあり得ません。
さて。統一教会現役信者諸君が、これらを覆そうとするなら、ソ連経済の崩壊や信教の自由に関する法律の制定に、統一教会がどのような貢献を果たしえたのかを説明いただきたいものです。
今なら、かつてと違って情報も入手しやすくなっているでしょうから、それほど難しい仕事ではないと思います。
以上