悪い冗談
統一教会ブログ村の記事は、もはやバトルロイヤル状態。これが教会の現状を反映したものなのだろう。
誰の記事を見ても、これで将来世界のありとあらゆる問題を解決しうるプランを提示しうるとはとても思えない。
それから、米本氏の「撲滅!究極の霊感商法」さんだっけな?なんかそんな人が現役信者の弁明をしていたけど、この人は、現役信者、なかでも壮年・壮婦の方々の現実をかなり正確に描写しているような気がする。
米本さんは、少しでも春川の事件の人やその家族を思いやったか、と書いているが、これもUCの人たちの現状とか心理状態を把握しきれていないことから来るズレというか、勇み足だと思う。
現実的には「撲滅!」さんが書くように、そんな事に気をかけている暇はない。
また、仮に知っている人がいたとしても、「摂理の犠牲になったのだ」と思うぐらいだろう。
そして、彼らが言う「摂理の犠牲者」とは、たとえばアメリカ軍が、犠牲になった自軍の兵士のために丁重に弔いを行うとか、敬意を払って遇するとかそういう意味はほとんどない。
どちらかといえば、いわゆるアダム家庭やノア家庭のように「失敗者」、「何らかの献祭に失敗した者」という意味であって、つまりはサタンの侵入を許した者ぐらいの意味でしかない。
個人的に、この表現に反発する人もいるかもしれないが、組織としての対応を見る限り、そう判断せざるを得ないのです。
反論があるなら、拉致監禁に対して教会が今までとってきた態度、逮捕者への態度を振り返りつつ、教会は摂理の犠牲となった方々に、それに相応しい対応をしてきたことを説明してみてください。
残念ながら、個人的にどう思うかは別として、組織としてそういう人たちを極端に冷淡に扱ってきたことは否定しようがないのですよ。
組織全体がそういう方向とかベクトルを持っている以上、責任者もそういうベクトルの影響を受けて物事を判断するし、行動する。
その結果として末端まで含めた教会全体の「犠牲になった方々への思い」がどういう方向になるのか、説明の必要すらないでしょう。
米本さんに限らず、仮に誰であっても同じだと思いますが、教会長に「春川の事件はどう思いますか、うちの教会としても何かしてあげることは何かないのでしょうか」と聞いたら、帰ってくる答えを平均すると次のようなところにしかならないと思いますよ。
摂理の犠牲者になったのだね。
だから一日も早く、我々は勝利してお父様の勝利圏を相続しなければならない。
そのために、あなたは、今月の献金にはどれだけ貢献できるかな?
(さすがに米本さんには言わないでしょうけどね)
ああ、春川の人のためには今夜の祈祷会で一緒にお祈りを捧げることにしておきましょう。
せいぜいこんな程度でしょう。
末端の食口が、苦しむ(教会の)兄弟姉妹をなんとかしてあげたいと思って教会長に相談したところで、この程度の回答しか帰ってこないし、逆に「そんな余裕があるのならもっと献金しましょう」と、献金の詰めをされるのが明らかなので、誰も何も口にすることはない。
教会では、誰も仲良く会話しないといってたのは他ならぬ米本氏でしたが、同じカイン同士の教会員ですら日常の会話すらしないのですよ?
まして上の人間に、教会の今回に触れたりするようなことを言ったりすることはない。
下手にその問題に触れて、郭グループとか言われるのも面倒くさいしね。
そして、結局のところ、「薮蛇になるから、そういうことは言わないようにしておこう」という姿勢の人たちがあつまったところで、仮に知っていたとしても彼らに思いをいたすような教会員は稀、そして、実際のところは教会長もそんな情報は流さないので、知ることすら出来ないという教会ができていくことこそ、自然の摂理、法則というものだと思います。
これで「数千年の歴史のもつれを解く」とか、よく言うよなというか、どれだけ良く言ったとしても悪い冗談にしかなっていないと思います。
誰の記事を見ても、これで将来世界のありとあらゆる問題を解決しうるプランを提示しうるとはとても思えない。
それから、米本氏の「撲滅!究極の霊感商法」さんだっけな?なんかそんな人が現役信者の弁明をしていたけど、この人は、現役信者、なかでも壮年・壮婦の方々の現実をかなり正確に描写しているような気がする。
米本さんは、少しでも春川の事件の人やその家族を思いやったか、と書いているが、これもUCの人たちの現状とか心理状態を把握しきれていないことから来るズレというか、勇み足だと思う。
現実的には「撲滅!」さんが書くように、そんな事に気をかけている暇はない。
また、仮に知っている人がいたとしても、「摂理の犠牲になったのだ」と思うぐらいだろう。
そして、彼らが言う「摂理の犠牲者」とは、たとえばアメリカ軍が、犠牲になった自軍の兵士のために丁重に弔いを行うとか、敬意を払って遇するとかそういう意味はほとんどない。
どちらかといえば、いわゆるアダム家庭やノア家庭のように「失敗者」、「何らかの献祭に失敗した者」という意味であって、つまりはサタンの侵入を許した者ぐらいの意味でしかない。
個人的に、この表現に反発する人もいるかもしれないが、組織としての対応を見る限り、そう判断せざるを得ないのです。
反論があるなら、拉致監禁に対して教会が今までとってきた態度、逮捕者への態度を振り返りつつ、教会は摂理の犠牲となった方々に、それに相応しい対応をしてきたことを説明してみてください。
残念ながら、個人的にどう思うかは別として、組織としてそういう人たちを極端に冷淡に扱ってきたことは否定しようがないのですよ。
組織全体がそういう方向とかベクトルを持っている以上、責任者もそういうベクトルの影響を受けて物事を判断するし、行動する。
その結果として末端まで含めた教会全体の「犠牲になった方々への思い」がどういう方向になるのか、説明の必要すらないでしょう。
米本さんに限らず、仮に誰であっても同じだと思いますが、教会長に「春川の事件はどう思いますか、うちの教会としても何かしてあげることは何かないのでしょうか」と聞いたら、帰ってくる答えを平均すると次のようなところにしかならないと思いますよ。
摂理の犠牲者になったのだね。
だから一日も早く、我々は勝利してお父様の勝利圏を相続しなければならない。
そのために、あなたは、今月の献金にはどれだけ貢献できるかな?
(さすがに米本さんには言わないでしょうけどね)
ああ、春川の人のためには今夜の祈祷会で一緒にお祈りを捧げることにしておきましょう。
せいぜいこんな程度でしょう。
末端の食口が、苦しむ(教会の)兄弟姉妹をなんとかしてあげたいと思って教会長に相談したところで、この程度の回答しか帰ってこないし、逆に「そんな余裕があるのならもっと献金しましょう」と、献金の詰めをされるのが明らかなので、誰も何も口にすることはない。
教会では、誰も仲良く会話しないといってたのは他ならぬ米本氏でしたが、同じカイン同士の教会員ですら日常の会話すらしないのですよ?
まして上の人間に、教会の今回に触れたりするようなことを言ったりすることはない。
下手にその問題に触れて、郭グループとか言われるのも面倒くさいしね。
そして、結局のところ、「薮蛇になるから、そういうことは言わないようにしておこう」という姿勢の人たちがあつまったところで、仮に知っていたとしても彼らに思いをいたすような教会員は稀、そして、実際のところは教会長もそんな情報は流さないので、知ることすら出来ないという教会ができていくことこそ、自然の摂理、法則というものだと思います。
これで「数千年の歴史のもつれを解く」とか、よく言うよなというか、どれだけ良く言ったとしても悪い冗談にしかなっていないと思います。