KIB: kurogane in black

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たずねもとめた三千里

黒田かんご氏は神様と会話したり、少なくとも疑問を持てば神様から答えを頂けるとおっしゃっている。


しかし、これまでの彼の発言を見る限りは、神様の定義が間違っているか、彼が神様と思い込んでいるのは別の存在であるとしか思えない。


例のアメリカ在住食口が実名で記事を書いている事について、日本時間の真夜中にアクセスが増える怪、という彼の疑問に、なぜ神様はお答えにならなかったのか?


まさかまさか、ひろなお氏が日本とアメリカの時差を計算した表を提示して、日本時間の真夜中にアクセスが増えるのは怪ではない事を証明した事が神様の答えだとか、そんなことは言いませんよね。



こんな神様もびっくりするような返答したりはしないと思いたいところですが。


でも、もしこんな事を間違って言ってしまったら、ひろなお氏が書いた「黒田かんご氏=天の声氏」(証拠はIPアドレスその他の物証による)であるという記事も神様の答えと言われてもおかしくないことになっちゃうわけだが。



あと、韓国の地方在住者の「夜8時でも(韓国の)子供が外で遊んでいる」から「日本人の女性旅行者が暗がりを一人で歩いても問題ない」根拠としようとしたりするのも、なんとも牽強付会なやりかただし、こんなので良しとする神様がいるなら、なんとも日本に縛られた神様が教えてくれる回答なのだなと思ったりする。





ちなみに、私の小学生時代、地理の成績は(地理の成績だけじゃないけど)散々なものだった。

私にとって役立ったのは小学校の授業や勉強ではなく、カルピス名作劇場だ。




特に「母を訪ねて三千里」のエンディングは秀逸だった。



イタリア・ジェノヴァに暮らす少年マルコを朝起こしたお日様が真上に来る頃(つまりイタリア・ジェノヴァは正午になる頃)、今度はアルゼンチン共和国のブエノス・アイレスに出稼ぎに行ったマルコのお母さんを起こしている、つまりブエノス・アイレスが朝になっている事を教えてくれる。



授業ではせいぜい1回だけ説明して、あとはテストで見るくらいという繰り返しの少なさという欠点が根本的に存在していたわけだが、母をたずねて三千里は、最終回を迎えるまでの52回、毎回毎回、あの歌を通じて地球が丸くて回っていること、そしてそのお陰で時差があることを教えてくれるのだ。

しかもイタリア語で「かあさんおはよう」が「ボンジョルノ・ミア・マドレ」で通じることまで学べた。
結局、私が知っているイタリア語はそれぐらいで、かつ、その表現をイタリアで使う機会はこれまでなかったし、また残された人生でもほとんど皆無だろうというのが残念なのだけども。



話を元に戻すが、「かあさんおはよう」は、頭の上に来たお日様を見上げながら、「このお日様が今はお母さんを起こしているんだな」と、遠くにいる母を思うマルコの優しい心までこちらに染み通ってくるような、素晴らしい歌だった。

大杉久美子のすばらしい歌声と、ほのぼのとした絵柄にのって響くあの歌は、何回聴いても飽きない。今聞いても、素晴らしいと思う。


ちなみに、オープニングも大杉久美子が歌う「草原のマルコ」だったが、こちらはカルピス名作劇場屈指の名曲の一つだと思っている。




もしかして、数万冊を読んだらしい黒田かんご氏はカルピス名作劇場は見なかったのだろうか?







ところで、マルコの物語は「母を訪ねて三千里」だったが、韓国人たちは朝鮮半島の事を「三千里」と表現することがある。



聖歌にも♪三千里 錦繍江山(サムチョルリー クムスガンサン)♪とかいう歌い出しではじまるものがあるが、つまりは「美しい朝鮮半島」と言っているわけだ。

三千里薬品というドラッグストアや、各地に存在する三千里という焼肉店なども、朝鮮半島の別名を看板にしていることになる。


しかし朝鮮半島と、イタリアのジェノヴァからアルゼンチンのブエノス・アイレスまでの距離を比べると、どんなに頑張っても後者の方がはるかに遠い。

同じ「三千里」なのに。



これは、朝鮮はいわゆる「中国の里」を単位として採用していたので、1里=500メートル。つまり朝鮮半島の三千里はほぼ1,500キロメートル。

一方、「母をたずねて三千里」は日本の基準で1里=約3.93キロメートル。
従って、三千里は11,790キロメートルになるからだろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C





同じ三千里でも、朝鮮半島の三千里を訪ね求めすぎた結果、視野狭窄に陥ってしまったとすると残念だ。


今からでも「母を訪ねて三千里」、特にエンディングテーマは何度も見直した方が良いのではないだろうか。(せめて52回)。



もっとも、本人にとっては大きなお世話なのだろうから、書くだけ無駄なのだけれど。