「知らなければなりません」とか「知らなければならないというのです」っていうのは、韓国発祥の某宗教団体の教祖をはじめ、その団体に属している人たちが良くつかう表現だ。
でも、その教団は組織全体として、どういう方向で具体的になにをするべきかということは、何も決まっていないまま、皆てんでばらばらに好き勝手なことをやっている。
その結果、「このことを知らなければならないというのです」といわれて「このことを知った」人たちが、今度は混乱して右往左往する状態に陥る。
Kotenjiのブログで、「人の話を聞いて混乱した時は(私見でございますが)」とかいう記事が書かれているのも、同じ文脈に乗っているといえる。目指す方向がきちんと定まっていて、そのために具体的になにをするのかがはっきりと示されていれば、
「知らなければならないというのです」
なんて、変な日本語を使わなくたって、皆、喜んで天国実現に向かって走り出すよ。
どっかの教育部長みたいに、自由の話をしているのか、福祉の否定の話をしているのか、それでどうして自由が奪われる話になるのか、さっぱり分からないために、こんな文章を読まれた人たちが混乱するはめになる。
改めて聞くけども、その原理本体論とやらを「知らなければならない」としましょう。
それを知ったら、その後、具体的に誰がなにをどうするの?
心情的な姿勢とかいう、皆さんの好きな言葉も含めてさ。
でも地上天国を具体的に地上に作るんだから、心情面でも具体的な活動面においても、なんだか良く分からないような言葉の綾が幾重にも織り込まれたようなあいまいで適当な話で人を煙にまくのはやめてもらいたいですね。
で、何をするの?
・・・こんな問いに明確に答えられるんなら、UCの問題もだいぶ簡単に解決するのでしょうけどね。