kokoroさんは、全てのことが良くなることを信じて活動しなければ娘は帰ってこなかったとのコメントをつけられた。
粘り強く娘さんとの対話を続けることで、拉致監禁などの方法によることなく、家族を取り戻した実績からくる深い確信と自信に裏付けられた言葉だと思います。
しかし、あえて批判されることを覚悟で言うなら、相手は相手でも家族と韓国人では話が違うだろうと思っています。
馬を水辺に連れて行ったとき、そこまでつれてきてくれたことに気がついて水を飲んでくれる馬も居れば、温泉につかりたいのに水辺につれてきやがってと文句をたれる馬も居る。
(いや、さすがにそんな馬は居ないかな)
韓国社会を覆う空気は後者の馬に近いものがあって、こちらの配慮や考え、思い、想定が基本的には通じない。
そういう相手であることをしった上で、それでも韓国と付き合いたいとかお嫁に行くというならそうすれば良い。
問題は統一教会では、韓国がそういう社会であることを教えていないこと、絶賛していること、韓国に行けと言う責任者と、韓国に行ったときの責任者の違いが、単に個人が違うだけでなく、これが同じ組織の人間なのかと驚くほど異なっていることなのです。
日本人の食口は特にそういう事をよくよく知ってから韓国には行くべきだ。
細心の注意を払って何もなければそれはハッピーなことだし、細心の注意を払った結果、問題が生じても被害が最小限に抑えられたら、それもまた良しと言える。
ただ、私がそう思ってみたところで、ここでも「馬を水辺に連れて行くことは出来ても、馬に水を飲ませることは出来ない」は当てはまるわけですが。