楽天ブログが閉鎖されてしまいました。削除されてもバックアップはとってるので、復元はできます。
以下、元記事は楽天ブログに2005年7月12日に公開したものをそのまま復元した文章です。
参考:元URL(現在は表示されません。)
http://plaza.rakuten.co.jp/kuroganeyashiki/diary/200507120001/
<以下、元記事の復元内容です。>
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昨日はエジプト苦役400年時代が、もしかしたら統一教会の主張するような「苦役」時代ではなかったのかもしれない、という説を紹介させていただきました。
kib.hateblo.jp
そうすると、こんどは、おなじみ、こちらのページ(摂理的同時性の時代の図)における図表の下の左はし、「ローマ帝国迫害時代」についても検討しておくのが妥当でしょう。
今回の件は長くなりますので、次の2回シリーズで検討してみます。
1)ローマ帝国迫害時代を検証する 前編 ローマ帝国はキリスト教を400年間も迫害していたか?(本記事)
2)ローマ帝国迫害時代を検証する 後編 「ユダヤ人は歴史的に嫌われてきた」は本当か?
<ローマ帝国はキリスト教を400年間も迫害していたか?>
このローマ帝国時代にクリスチャンたちは400年間も迫害を受けていた、という数字は私がメンバーであった時にも、どうも合わないよなと思っていたことでした。
確かにイエスの死後、キリスト教が成立してからしばらくの間、それに対するローマ帝国の迫害があったことは動かしがたい事実です。
しかし統一原理の主張通りに、単純に400年間もクリスチャンたちはローマ帝国から迫害を受けるばかりの虐げられた民であり、その虐げに対し、愛と犠牲と奉仕とで人々の心を掴みとり394年には国教になるのだ、という図式は正しいのでしょうか?
私達が習った世界史の事実と照らし合わせたり、また実際の私達の皮膚感覚として、それはどうにも納得がいきません。
今日はこの点について検討してみたいと思います。
<400年の迫害は誇張のしすぎ>
実際には313年にはキリスト教は既に認可されて禁教令はとかれているわけですから、この時点で既に迫害は終わっている。
このページを見ますと、このように書かれています
歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒はますます増大し、4世紀初めの、ディオクレティアヌス帝による大迫害のあと、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であるとさとり、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用しようとしたのが、コンスタンティヌス帝である。当時、西の副帝であったコンスタンティヌス帝は、6人と帝位を争っていたが、順次これらを破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架と「汝これにて勝て」という文字を眺め、それを旗印に戦って勝利を得たので、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督あての書簡の形でキリスト教の信仰を公認した。これが有名な「ミラノ勅令」である。 コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一のために利用しょうとしたが、教会内に教義の対立があったので、教義の統一を計るため小アジアのニケーアに全教会の司教、長老など約300人を集め、いわゆる「ニケーアの公会議」を開いた。そして激しい論争の末、「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも本質的には同一である」という三位一体説を唱えたアレクサンドリアの助祭のアタナシウス(295頃~373)の説を正統とし、アレクサンドリア教会の長老のアリウス(250頃~336)のキリストの神性を否定し、人性を重んじる、いわゆるアリウス派を異端とした。このためローマ帝国から追放されたアリウス派は以後ゲルマン人の間に広まって行く。 |
この記述を見ますと紀元300年代の初頭までは大迫害があったようですが、しかし313年には皇帝が帝国統一の手段としてキリスト教を「利用」しようとしておりますし、しかもキリスト教を利用するために問題となる「教義の対立」を止揚するべく、わざわざ「二ケーア公会議」を開催している。
この時点で迫害は終わっていると見るべきものでしょう。
社会に蔓延する「何々教の信者っていやだよね」という風評までをも迫害というのは、宗教者の身勝手な言い分だと思います。
この楽天でもホゴン君なんかが典型的な例でしたし、ホワイストーリーもそうでしたけれど、聞かれて当たり前の質問をされたらはぐらかしてみたり、ヤクザ者や犯罪者扱いしてみたり、頓珍漢な返事をしてみたり。
「ああ、やっぱり宗教やってる人とは付き合えないわね」というのは、彼らの行動がおかしいことによる当然の結果でしかなく、「いわれなき迫害」なんかでは絶対にありません。
それに313年に公認されてわずか80年後には、なんとローマ帝国の国教にまでなるということは、そこから相当えぐいことをして権力にもぐりこんだ筈で、その過程で迫害をうけるどころか、いろいろと権力者と持ちつ持たれつをずぶずぶにしていたと見るのが妥当だと思います。
今の創価学会・公明党を考えてみると分かりますが、政党を持ち、しかも与党であり、地方自治体にいたっては、学会に入信すると公団住宅の入居可能性が高くなりますよ、と無茶苦茶に公私混同をしながら布教している。
今は与党だとしても、それじゃ与党になる前に、創価学会が「日本から迫害を受けている」なんていったら、笑うでしょう。
「その通りですね、学会さんは迫害されていますよね」なんて応じますか?
まして当時は政教分離の原則など糞食らえの時代ですよ。
いずれにせよ、キリスト教が400年間もの間迫害されていた、というのは、強引なつじつまあわせだと思います。
キリストが西暦30年に亡くなり、パウロがペテロと共にローマに行くのが61年。確かにこの時はキリスト教は禁じられていましたが、明確にローマ帝国が迫害を行ったというのは、64年のローマ大火が起きた時にネロがわざと起こしたものだ、という噂を封じ込めるために、墓場に集って集会をしていたクリスチャン達を忌み嫌うローマ人の習慣につけこんで、大火の罪をクリスチャンに負わせて、処刑したのが初めではないでしょうか。
この辺りは、詳しいわけではないのであくまでも推測ですが・・・
この64年から計算すると、313-64=249年。
キリストの死後、直ぐにも迫害が始まっていたのだとしても、313-30=283年。
イエスが宣教を始めたときから迫害が始まったのだとしても、313-27=286年。
これは400に合わないのではないかと、私はかつてメンバーだったときに質問したことがあります。その時の答えは、「イエスは誕生の時からローマのヘロデ王に殺されそうになっている。つまり、生まれるときから迫害を受けてきたのだ。それに公認されただけで迫害か完全になくなったわけではない。現に統一教会だって宗教法人だけれども、今でも迫害があるではないか。だから国教になって初めて迫害を逃れたといえるのだ」というものでした。
当時は私も、疑問に思ってもどちらかといえば身内なわけですから、この説明でなるほどと思っていました。
既に上で述べたように313年以後、ローマ帝国内で迫害があったというのはご都合主義だと思います。
では、もう一方のイエスは生まれるときからローマ帝国の迫害の中を生き延びた、という説を調べてみましょうか・・・
ちなみに、イエスの誕生の時にその地方の子供を皆殺しにしたのは、ヘロデ王ですが、このページを見ると、ヘロデ王はエドム人であってユダヤ人でないけれど祖父の代からユダヤ教を信仰して来ており、父から親ローマとなっています。でローマの市民権もこの父から獲得しているようですね。
彼が権力を掴み、どのような形でイエスの誕生に際して2歳以下の子供を皆殺しにしたのかはこのページにかいてあります。
いやー、これ面白いな。知らなかったです。この当時のローマに関する記録って、こんなことまで残っているのですね。
おっと話がちょっとずれましたが、要するに、エドム人でユダヤ教徒の子が、ローマに取り入ってその力を背景にユダヤの王という称号をもらい、自らの地位を脅かすという予言のある子供を殺そうとしたからといっても、それはローマによる迫害というのは無理があります。
したがって、イエスは誕生の時からローマの迫害を受けてきたというのはあたらない。
でも、この「ヘロデ王によるユダヤ人統治や赤子の殺害をもローマの迫害」と主張する論理は、どこかで見たような気がしますね。
思い出しましたよ。日本帝国の威を借りて、名前も日本風のものを付けたがり、そうして日本人の振りをしてやりたい放題をやり、戦後はそれらは日本がやらせていたものだと主張する韓国人の論理と同じですね。なるほど統一教会を信じると、思考方法まで彼らに似てくるわけですね。
恐ろしい。
いずれにせよ、これではどんなに長くてもキリスト教に対するローマ帝国の迫害は286年。400年というには誤差がありすぎます。
大体、30%もずれてりゃおかしいでしょう。
あ!そうか!
その程度の誤差は誤差じゃない民族っていましたね。なんでもかんでも「ケンチャナヨ」民族。なるほど。
こんな強引な理屈は日本では生まれないわけですね。
それからユダヤ教もローマから迫害されていたから、というのは屁理屈です。なんでもかんでも一緒にしないほうがよいです。
もしユダヤ教がローマから迫害されていたのなら、いくらユダヤの王だからといってもこのページにあるように、ヘロデ王だってユダヤ教の神殿を建設することはできていないはずです。
それに、実はアンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)は、キリスト教が生まれる前のローマにはなかったのです。
後編に続く