KIB: kurogane in black

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「こちらにおいで」を選ぶことこそ危険な選択

昨日の記事は、不思議なトーンの内容だった。

元信者のくせして、現役信者に対して「統一教会を下手に辞めるな。こちらに来るな」とも読める内容だった。

こんなことを書くと、またぞろ「ほら見ろ、やっぱりあいつは現役だ!」みたいな考えが足りない発言をする奴がいるわけだが。


改めて思い出すまでもなく、そして統一教会の伝道方法を含めて、この世のありとあらゆる怪しい団体、奴等、詐欺師達は、「こちらの水は甘いよ」と言って誘うものなのだ。

そして実際についていってみた所が、言葉通りに「乳と蜜の流れる約束の地」であったりすることはない。

モーセの時には、ヨシュアに使命を引き継いででもカナンにたどり着いたではないか!」などと、変なことを言い出さないように。統一教会が約束した「乳と蜜の流れる約束の地」を築いてからでなければ君らには口を聞く資格はない。

そしたら君たちは「いや、あの時のイスラエル民族もモーセとともに120年間も砂漠をさまよった。同じように、今の我々も、私たちの不信仰のせいで砂漠をさまよっているのとおなじことなのだ」などと言い出すだろう。

はい。

それでは、モーセの時には、モーセの妻、チッポラと、子供たち(三男や七男)に分かれて、バラバラに砂漠をさまよっていたんかいな?

適当な部分だけ都合よく持ち出して好い加減なことを言っていると痛い目にあうぞ。



さて。話を元に戻そう。

聖書に、

人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。 」(ルカ17:23)

とある通り、大体は「こちらにお出で」と相手が引っ張り込もうとするところに良いものはない。

であれば、彼岸橋を渡るつもりなら、それなりの覚悟をしておけと言ってあげる方が本当の意味でのやさしさだろう。中途半端に、こちらにきたらヘルプもある、なんて少なくとも私は簡単には言えない。

相手が置かれている状況を、ほんとうの意味で分かっているのはその人だけだし、それを知ることもなく、適当に「こっちにきたら大丈夫」なんて言えない。

今の状況が地獄で、この地獄から逃れられたらどこでも良い、ぐらいの覚悟で来るのでなければ、中途半端な覚悟でわたってきても、年もとったおっさん・おばはんの面倒なんか誰も見てくれないよ。

社会保険や支援制度があるのは事実だろう。しかしそれだって自分で必死に探していくぐらいでなければ、どうにもしてあげられない。

私が、わざわざ市役所に行って資料を調べ、手続きをしてあげるのか?誰かがやってくれるのか?

ボランティアでそんなサービスをやってくれる団体もあるのかもしれないし、最初はそこに甘えるのも良いだろうけれども、いずれは自分で自立していなければならない。ボランティア団体にいつまでもおんぶに抱っこで生きていけるわけではないのだし。

そういうことも含めて、彼岸橋を渡るとは大変な覚悟がいる。

それは自分で覚悟を決め、自分で腹をくくり、自分で責任を負うつもりでわたっていくしかないのだ。


自分たちが統一教会、分派、そして思い出したが、ホワイストーリーみたいな亜流まで含めて、これらの宗教団体につれてこられたときのことを思い出せば、ありとあらゆる手段を講じて、あちら側に引っ張り込み、こちらの世界からプッシュを掛け、「こちらにお出でなさい。用意はとうにできている。娘と踊ってお遊びよ」と言われたはずではなかったか?

そんな団体から足を洗うのに、また彼岸橋の反対側にいる人たちから引っ張ってもらうことは期待するな。

自分で飛び込んで言った彼岸橋の向こうの世界からは、自分で覚悟を決めて抜けてくるしかない。


昨日の記事は、そういう気持ちで書いた。

辞めるのなら、本気で覚悟を決めるべきだ。誰かが助けてくれないか、などと変な期待をするな。

「坊や、一緒においでよ」という所には乳も密も流れていない。