まじめにやるつもりはない事が証明されたとでも言っておきますか
小林氏のブログ記事を見ているとこんなのがあった。
http://hiroshi-kobayashi.at.webry.info/201212/article_3.html
記事はダーウィンの家族の状況を振り返りつつ、信仰を失うときについて考察している内容となっています。
この記事で、光太郎氏と小林氏のコメントのやりとりはこのような感じで展開されていきます。
1)光太郎氏のコメント(抜粋)
ここまで追い討ちを懸けられたら、反旗を翻したくなるのも分かる気がします。
本当に、今の時代アベル圏に立つ我々は歴史の教訓に学ぶ必要があると思います。
2)小林氏のレス(抜粋)
●光太朗さん
アベル圏に立つ我々の責任は、とても重大ですね。「もし自分のカイン圏に、ダーウィンのような境遇の人がいたら…」とシミュレーションしてみるのも良いですね。自分はその人に対して、どのような行動できるでしょうか?
3)この小林氏の問いかけに対する光太郎氏の回答
>自分はその人に対して、どのような行動できるでしょうか?
先ず、その境遇に陥る気持ちを共感できるよう寄り添い徹底して話を聞きます。
原理のみ言に照らしながら、その人の事情を一緒に考え許せる努力をするでしょう。
最後は、神様を本気で尋ね求める決断を促し任せる。
人にはそれぞれ責任分担があるので、これぐらいで限界かな?。(^_^;)
この光太郎氏の回答に対して、小林氏は何も返事をしていないので、小林氏がどう受け止めているのかについては分からない。
しかしながら、光太郎氏のこの回答は酷いね。
自ら「歴史の教訓に学ぶ必要がある」と書いておきながら、ダーウィンがどんな問題について悩み、そしてどのように考えを展開していったのかという事については何も検討していないと思われる。
彼が書いた「これぐらいで限界」の内容は、ダーウィンの問題意識には何も応えていない。
要するに「それでも神様はいらっしゃいます。そして神様を求めるのはあなたの責任ですよ」と言うのが最終的な結論だ。
寄り添って話を聞いたことが何かに役立つか?役立っていない。何のために話を聞いたのか?
結局、原理に照らせば神様はいるし責任分担があるので、あとはご自分でと言うだけなら、話なんか聞かなくたってできる。
あるいは話を聞いてもそれをやるだけなら、別に原理があろうがなかろうが、結局ダーウィンにとっては同じ結論にしかならないだろう。
ダーウィンの時代に原理のみ言葉があってそれをダーウィンに聞かせていたら、彼は神への信仰を失わず、進化論の開発はしなかったのだろうか?
彼が言う歴史の教訓に学ぶとは、何をどのように学ぶことなのか?
というかさ。
今更「ダーウィンのような人がいたらどうするか」をシミュレーションしてみるとか、そんな必要がないほど、明確に神についての回答を与えるのが、本来統一原理が提供することを約束していた価値だったのではないか?
それが、結局のところ「いやー、最終的にはあなたに責任分担があるので、神がいるかいないか、本気で捜し求めてくださいよ。」というのが限界だと自ら言っているわけでしょう。
それなら、統一原理は神の存在について、また神様にまつわる数々の疑問について、明確に答える真理ではないと、信者自らが認めたようなものだ。
黙示録に
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて」
と描写された天国を実現すると豪語している人たちが、結局ダーウィンごときの悩みにすら、今の時点でも応えられない。
もっとも、光太郎氏の場合には、そもそもダーウィンの悩みがなんだったのかということをすら、きちんと把握していると思えないので、こんな通り一遍の回答をしておいて「これで限界」と言っている可能性もある。
だから、それを統一原理の失敗と言ってしまうのは、ちょっとばかり言いすぎかもしれないけども。
しかし、小林氏もそれについては何も言及していないし、そもそも記事でも触れていない。
今、神への信仰を失いそうなダーウィンが目の前にいたら、統一食口はいったいどうするのか?
今の統一教会の現状を見るにつけ、彼を躓かせた神父のような教会長や教区長、教育部長だらけといえる状況に、彼の神への不信に追い討ちをかけた霊能者みたいのもいる。
今の世にダーウィンがいたとしても同じ道をたどらせるだけでしかないと思うけれども。
というか、結局、反対派や元信者が言っている内容は無視したまま、歴史の教訓に学ぶとかなんとか、まじめにやる気がないのは明らかですよね。
本気で歴史に学ぶつもりだというなら、その事を自ら証明してみせてくれることを期待したい。
(いや。全然期待してないですけど。できるんならとっくにやっているって。)
http://hiroshi-kobayashi.at.webry.info/201212/article_3.html
記事はダーウィンの家族の状況を振り返りつつ、信仰を失うときについて考察している内容となっています。
この記事で、光太郎氏と小林氏のコメントのやりとりはこのような感じで展開されていきます。
1)光太郎氏のコメント(抜粋)
ここまで追い討ちを懸けられたら、反旗を翻したくなるのも分かる気がします。
本当に、今の時代アベル圏に立つ我々は歴史の教訓に学ぶ必要があると思います。
2)小林氏のレス(抜粋)
●光太朗さん
アベル圏に立つ我々の責任は、とても重大ですね。「もし自分のカイン圏に、ダーウィンのような境遇の人がいたら…」とシミュレーションしてみるのも良いですね。自分はその人に対して、どのような行動できるでしょうか?
3)この小林氏の問いかけに対する光太郎氏の回答
>自分はその人に対して、どのような行動できるでしょうか?
先ず、その境遇に陥る気持ちを共感できるよう寄り添い徹底して話を聞きます。
原理のみ言に照らしながら、その人の事情を一緒に考え許せる努力をするでしょう。
最後は、神様を本気で尋ね求める決断を促し任せる。
人にはそれぞれ責任分担があるので、これぐらいで限界かな?。(^_^;)
この光太郎氏の回答に対して、小林氏は何も返事をしていないので、小林氏がどう受け止めているのかについては分からない。
しかしながら、光太郎氏のこの回答は酷いね。
自ら「歴史の教訓に学ぶ必要がある」と書いておきながら、ダーウィンがどんな問題について悩み、そしてどのように考えを展開していったのかという事については何も検討していないと思われる。
彼が書いた「これぐらいで限界」の内容は、ダーウィンの問題意識には何も応えていない。
要するに「それでも神様はいらっしゃいます。そして神様を求めるのはあなたの責任ですよ」と言うのが最終的な結論だ。
寄り添って話を聞いたことが何かに役立つか?役立っていない。何のために話を聞いたのか?
結局、原理に照らせば神様はいるし責任分担があるので、あとはご自分でと言うだけなら、話なんか聞かなくたってできる。
あるいは話を聞いてもそれをやるだけなら、別に原理があろうがなかろうが、結局ダーウィンにとっては同じ結論にしかならないだろう。
ダーウィンの時代に原理のみ言葉があってそれをダーウィンに聞かせていたら、彼は神への信仰を失わず、進化論の開発はしなかったのだろうか?
彼が言う歴史の教訓に学ぶとは、何をどのように学ぶことなのか?
というかさ。
今更「ダーウィンのような人がいたらどうするか」をシミュレーションしてみるとか、そんな必要がないほど、明確に神についての回答を与えるのが、本来統一原理が提供することを約束していた価値だったのではないか?
それが、結局のところ「いやー、最終的にはあなたに責任分担があるので、神がいるかいないか、本気で捜し求めてくださいよ。」というのが限界だと自ら言っているわけでしょう。
それなら、統一原理は神の存在について、また神様にまつわる数々の疑問について、明確に答える真理ではないと、信者自らが認めたようなものだ。
黙示録に
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて」
と描写された天国を実現すると豪語している人たちが、結局ダーウィンごときの悩みにすら、今の時点でも応えられない。
もっとも、光太郎氏の場合には、そもそもダーウィンの悩みがなんだったのかということをすら、きちんと把握していると思えないので、こんな通り一遍の回答をしておいて「これで限界」と言っている可能性もある。
だから、それを統一原理の失敗と言ってしまうのは、ちょっとばかり言いすぎかもしれないけども。
しかし、小林氏もそれについては何も言及していないし、そもそも記事でも触れていない。
今、神への信仰を失いそうなダーウィンが目の前にいたら、統一食口はいったいどうするのか?
今の統一教会の現状を見るにつけ、彼を躓かせた神父のような教会長や教区長、教育部長だらけといえる状況に、彼の神への不信に追い討ちをかけた霊能者みたいのもいる。
今の世にダーウィンがいたとしても同じ道をたどらせるだけでしかないと思うけれども。
というか、結局、反対派や元信者が言っている内容は無視したまま、歴史の教訓に学ぶとかなんとか、まじめにやる気がないのは明らかですよね。
本気で歴史に学ぶつもりだというなら、その事を自ら証明してみせてくれることを期待したい。
(いや。全然期待してないですけど。できるんならとっくにやっているって。)