KIB: kurogane in black

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ために生きる

変な話になるが、原理講論は間違っているが、創造原理に限っていうのであれば正しい部分もある。

盗人にも三分の理というが、あんな統一教会だって、せめて何かすこしぐらい正しいことを言わなければ、そもそも人が集まるわけがないわけで。


たとえば、愛の戦士レインボーマン死ね死ね団みたいなことを言うのが統一教会だったら、よほど変なやつしか行かないだろう。

改めて「死ね死ね団のうた」って凄いな。



話を元に戻すが、たとえばどんなお店に行っても、店員さんが気持ちよく働いてくれるように客として気を使う。

こちらがどんなに丁寧に対応しても分からない店員もいるが、こちらの配慮に気がついた店員さんのいる店は、ほとんど始めて入ったようなお店であっても上客として扱ってくれる。

高い買い物をしているから乗客として扱ってくれるのであれば、それは客としてではなく財布として見られているから丁寧に扱っているように見えるだけだ。

ほとんどお金を使っていなくても、大切な客として扱ってくれるのは、こちらも相手を尊重するからだ。


こんなのは統一原理によらずとも、倫理道徳の教科書にも書いてありそうな気がするし、どんな宗教団体でも同じようなことは書いてあるだろう。

統一原理にも「授受作用」、授け受けして円運動をして云々みたいなことが創造原理に書いてある。


それなら統一原理は全部が正しいのか?といえばそれは違う。

一部が正しいからといっても部分点はとれるかもしれない。
しかし、全体で間違っているのなら合格点にはならない。


また部分点しか取れないならそれなりに部分点だけでも積み重ねれば少しはましかもしれないのだけれども、他の宗教団体でも等しく述べているような簡単なことすらやらない。
つまり上で書いたような授受作用ひとつ、統一教会でまともにやっている人は少ない。

憲法の恣意的な利用や、ありとあらゆる人たちを自分の側に役立つ発言をしてくれるかどうかだけで判断するのも、授受作用になっていない。

授受作用的に解釈するなら、こちらが間違った「授け」をしてしまった「受け」として批判が返ってくる。

お店の店員さんを尊重せず、敬意を払って対しなければ客として扱われないのと同じことだろう。


であれば、そういう厳しい反応は自らのほうに原因があると考えて態度を改める事はしない。
何度も書いてきたが、何かが自分たちの役に立つと思えば建っている親でも使うが、ちょっとでも自分とは異なる意見を言い出した瞬間、サタン扱いして遠ざけてしまう。

憲法の「信教の自由」を利用して、拉致監禁には反対するが、2世信者の信教の自由は認めなかったり、婚姻の自由もかつては認めていなかったのとおなじだ。

米本さんも拉致監禁問題で反対牧師の問題点を指摘している間は統一教会でも散々持ち上げていたが、そこから統一教会の問題点を指摘した瞬間、どれだけ早く手のひらを返したのかは、説明の必要もあるまい。


統一原理は真理だ、メシアのみ言は命だというが、いろはの「い」すらやらないのであれば、そりゃ自分たちの主張するようなことは実現されないだろうし、祝福=血統転換に意味はないと言い出す人がいたっておかしくない。


統一教会の皆さんは、まずは本当の意味で「ために生きる」を実践されてはどうなのだろうか?

家族に与えたはずが、期待する反応がないのは、間違った「ために生きる」を実践してしまったから、その反作用としてこういう結果になったと考えてはどうだろう?

その結果、反対していた家族が話を聞いてくれたら正しい授受作用ができた証になるだろうし、逆に自分が間違っていたことに気がついても、それは正しい授受作用の結果なのだろう。

いずれにしても、今までよりは一歩進んだ状態であり、それが授受作用の結果なのであれば、信じて前に進むべきではないのだろうか?

その方がよほど、「世界平和家庭連合」だとか、サンクチュアリだとか、櫻井オッパとか、あまり意味がないことで行ったりきたりするよりはよほど充実した人生になるのではないかと思うのだが。