We can't go
鬼束ちひろの「We can go」という歌があるのだけれども、これを最初に聞いたときには衝撃を受けた。
まるで、統一原理を聞いて信者になろうと思ったときの気持ちのようではないか!というのがその理由。
We can go to the Place.
「The Place」を「統一勇士として目指すべきその世界=地上天国」と読んで、そこに行けば許しを得られ、自由を獲得できる!とは、これまたなんという「統一聖歌!」なわけだ(笑
もっとも、信者の時代にこんな歌を聞いていたわけではなく、辞めたあとの話だから、聖歌のように祈祷室で歌ったりしたことはないけども。
それどころか、「We can't go」とか「Nobody can go」と思ったものだが。
過去の統一信者時代を笑い飛ばすために、という理由でよく聞いていた時代があった。
もはやそれも「今は昔」。今昔物語になりはてている。
日韓の一体化?
いまの状況をもし現役信者だった時代に眺めていたとしたら、眩暈がして、「日本は堕落したサタンにとられた!」とか大騒ぎをして祈祷をささげていたことだろう。
今の私が「これ、信者時代のできごとだったらシャレにならんな」と思うのだけれども、信者の皆さんは平気らしい。
統一教会の信者が、憲法で保障されている人権を侵害しているという理由で拉致監禁に反対していたが、その舌の根も乾かないうちに、同じく憲法で保障されている思想・信条の自由を否定して平気という姿勢に米本さんが厳しく追求していたことがある。
しかし、結局のところ信者は何か宗教的な理念なり真理(と信じているもの)に献身的なのではなく、アベルの指示にのみ従順なだけなのだ。
だから、かつて「お父様」がこのままでは日本がサタンにとられるから献金せよ!と叫べば、必死に祈祷、断食、街頭演説もいとわないが、アベルが何も言わなければ反応しない。
自分の頭では考えられず、アベルの指示にのみ従うように教育された人は、世の中から見れば「洗脳された人」にほぼ等しいわけだが、もはやそんなことはどうでも良い。
こんな情況になっても平気なのなら、なぜ昔はみな、必死になって日韓の一体化のためとか意味不明なことのために命を懸けて献金したり、伝道したり、お嫁に言ったりしたのだ?
まともな人間にできることではないし、あらためてこれが神さまとやらの命令などとは毫ほども感じることはできない。
「We can go」改め、「We can't go」としみじみ感じる今日この頃。