米本さんのところで、不思議なタイトルの記事があった。
統一教会⇒世界平和家庭連合⇒「世界暴力統一家庭連合」にでもするつもりか!と驚いているのだろうか?
個人的には、単に今まではそれでも宗教的な団体としてむりやりそういうものを見せないように押さえ込んできただけであって、その重しが薄れてしまった結果、隠してきたものが現れてきただけのことだ、と思っている。
私は今ではありとあらゆる「宗教団体」と関係を持とうと思っていないが、それでも聖書だったり仏典が人類に対して果たしてきた文化的、精神的影響は認めているし、中には人生であったり自然の摂理(本来の辞書的な意味での摂理。統一教会の信者達が使う怪しい「摂理」などとは異なる)を的確に述べていたりする。
統一教会の昨今のこの状況について言えば、それこそ聖書の書かれた時代に既に人口に膾炙していて、ルカの福音書には次のように書かれている。
ルカによる福音書 第12章2~3節
おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。
あるいは、統一教会の信者達が皆、一生懸命に読もうと努力して挫折した書物、「原理講論」でも幸いなことに眠くなってしまう前に読める辺り、すなわち創造原理の最初に引用されている次の聖句も同様の趣旨でとらえることが可能だろう。
ローマ人への手紙 第1章20節
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
つまり、統一教会信者の見えない性質、すなわちその暴力的性向と日本人を虐げつつ、この世の欲をむさぼる下品さは、統一教会設立この方、その活動において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
重要なことなので、もう一度書いておこう。
統一教会は変貌したのではない。もとから隠されていた性質が、とうとう隠しきれなくなってきただけだ。
アベルの号令があれば、統一教会に批判的なマスコミだったり出版社に全国から電話を掛けさせたり、会社の前でデモをやる。
一方、同じことをたった一人の信者から自分たちの本部教会の前でやられたら、「愛で屈服させる」などと書かれていた教義はどこへやらで、暴力的につぶしにかかる。
自分たちが過去に何をしてきたのか、覚えている頭すらないのか?と首をかしげるほどの単細胞的行動だ。
米本さんは、自分が取材で集めてきた情報の断片をいくつか思い出すだけでも、これらのことは再確認できるのではないか?
なのに、なぜ驚くのだろう?
信者と個人で話せば、純粋そうで悪いことをしそうにないから?
個別に話せばわかる奴、なんて言うのはどこにでもいるわけで、たまたま自分の目の前にいる個人が人格的に立派に見えたから、そいつが所属する団体も立派であるのかどうかは別の問題だ。
その具体的な幾人かの信者が純朴そうに見えているという主観的な判断よりも、彼等が団体として過去に何をしてきたか?
その行動の延長線上に今があるのではないのか?
過去の行いを見れば、今の統一教会のおかしな行動の種は既にまかれてしまっていたのであり、その種をまいた時期に、統一教会に育てられた人達が偉くなれば、教わったとおりの行動をするようになる。
今日蒔いた一つの種が、明日にはきっと芽を出し、そしていつかは蒔いた通りの実りを刈り取る。
数十年をかけて文鮮明やその一派が作り上げてきた団体が、ようやくいろんな制約から自由になってその本来の姿を現しただけにすぎない。
統一教会の信者達は、そのことを喜ぶべきだろう。
君達が理想としてきた団体が、今まさに姿を現しつつあるのだから。