今日は日曜日。
昔なら「聖日」と呼んで礼拝に行くことに余念がなかった一日だった。
私が信者だった頃は韓国人なんか教会の中にはいなかったし、どんな「人たち」なのかなんて知る由もなかった。
その後、いろいろな経緯を経て、これは駄目だとは思ったものだった。とはいえ私がこれは駄目だと判断したのは、ごく一部の「韓国人教会長」だけだったし、私自身それほど素晴らしい背景で生まれてきたわけではないので、一部の韓国人教会長だけを見て判断してはいけないのではないか?
原理講論に書かれている韓国人とは聖なる民族で宗教的天稟にあふれ、また当時の日本人幹部があちこちで講義していたように「韓国の乞食すら日本人より尊い」という説明が本当かどうか確かめる必要があると思って韓国にまで行ったわけだった。
いたずらに「ヘイト」などと既定されるのもめんどうなので、詳細は書かないけれども、今私がどういう立ち居地にいるかを思い出していただければ、その結果がどういうものだったか、言うまでもないだろう。
一方、日本には「乞食ですら日本人より尊い」御国から「宣教」のためにお越し下さっている尊きお方以上の宣教師・教会長の皆様方に置かれましては、昨今の日韓の状況を踏まえて、目の前にいる「哀れむべき」日本人に対してどのような礼拝をしているのだろう?
また、今の状況の中で日本人信者はどのようにして「伝道」するモチベーションがでてくるのだろうか?、
別にわざわざ調べてまで知りたい内容でもないのだけれども、純粋に不思議でしょうがない。
今なら引き止めるほうもモチベーションがあがらないだろうから、辞めるのなら今ですよ?とは思うけれども。