KIB: kurogane in black

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本人には悪いけど、それはあくまで自己満足にすぎないと思う。

ある時、一人の人が歩いていると、道端で苦しそうにしている人がいた。

あわてて駆け寄り、どうしたのか尋ねてみると、のどが渇いて動けなくなったが、周りには水を手に入れられる場所もなく、苦しんでいたところだとの返事であった。

その答えを聞き、駆け寄ってきた人はにっこりと笑って語りかけた。

「そうでしたか。実は私は人に与えても忘れるほどにカバン一杯の乾パンを持っているのです。これを食べて元気をつけてください」

ところが、苦しんでいた人は「お気持ちはありがたいのですが、私はのどが渇いているのです。乾パンはいらないのです。お水をお持ちではありませんか?」と答えるではありませんか。

 

しかし、その元気な人はひるむことなく、「いえいえ。遠慮は要りません。私には、本当に与えても与えてもありあまるだけの乾パンがあるのです。どうぞ、これをお召し上がりください」と言って、一個の乾パンを差し出してきた。


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これは、「Kotenjiのブログ」の記事、「真の愛の実践こそ解決の道:平和活動の証し(メールより)」を読んで思いついた逸話である。

その記事には、まず能書きがたれてあって、「真の愛の実践だとか、与えては忘れて、与えては忘れて。。。。」とかなんだかどこかで耳にたこが出来るほど聞かされた文章があり、そしてケニアでのなんとかの報告のメールが添付されていたんだけれども。

統一家の中は、もう見るも無残というか、片や自分たちこそ神の理想実現に向けてまい進すると言うかと思えば、片や彼らはサタンだと良い、サタンだとののしり訴訟をしかけて忙しい。

傍から見たらどっちもどっちで、結局は「俺が正しい」ということを一生懸命に語っているだけで、その内容に相応しい行いなんかちっとも見えないわけで。

UCIなのかどっちなのか、もはや区別すらつかないけれども、そのケニヤで活動をやっている人たちは、「いえいえ。だからこそ我々は真の愛を真剣に実践すべく、取り組んでいるのです」というのだろうけども。

だからこそ、最初に書いたこの逸話を思いついた。

君達がやっていることは、自分達の正当さを主張するための自己満足のための活動でしかない。

この世に地上天国をもたらすために、真の愛の実践をしているというけど、世の中やケニヤの人たちが困っているのは、君らのセミナーが聞けないことなのか?

君らのセミナーを聞くことが彼らが心底望んでいることで、それを与えることで、彼らの問題は解決し、そして地上天国建設に近づくとでも言うのだろうか?

うーん。どう考えても違うと思うよ。

君らは乾パンを一生懸命に与えようとしているのかもしれないけど、その人類本当にほしいものは別にあって、君達はそれが何か分かってすらいない。

それでいながら、相手がほしくもない乾パンを強制的に押し付けつつ、真の愛を実践した気持ちに浸っているだけにすぎない。

ここではその人が本当にほしいものを飲み水にたとえたが、あくまで君達が与えようとしているものとは違う、という意味でのアナロジーであって、飲み水=聖書の教えとか、何か宗教的な真理なんていうものではない。(こういう注意書きを書いておかないと、またぞろクリスチャンになったのかとか、分派とか言われかねないからね。)

「じゃあ、人類が本当にほしいものをいって見ろ」なんて馬鹿な質問はやめてくれよ。

そんな何十億もの人間が、すべからく、誰一人の例外もなく持っている要求で、それさえあれば幸せになれる「何か」が一言で言えるなんて思っていないし、その時、その時の状況によっても異なると考えている。

話がちょっとそれたよね。

彼の発言にもどれば、そもそも「与えては忘れ、与えては忘れ」なんて寝ぼけた発言している段階で、もう君らには「真」を語る資格なんてない、と思うもの。

本当に世界の人たちのことを心配している人は、自分が過去に何をしたのかすら覚えていなくて、今、目の前で困っている人がどうしたら幸せになるのか、無限に尽きることのないエネルギーを持って考え、行動し、喜び、泣き、そしてまた日が沈んで次の日に昇れば、またその人たちの為に必死に考えて行動している。

「与えては忘れ」なんていうのんびりした暇なんて許されていないよ。

忘れる暇すらなく、時々刻々状況が変わっていくのに、「与えては忘れ」?

うん。そんな事を言う君らは、「真」なんて語る資格なんてないと思うな。偽者であることに間違いない。「忘れて」なんて言っていることだけ見ても、君達は忘れていない。

繰り返すけど、相手がほしいものを理解することなく、自分がたまたま相手に押し付けられるものを押し付けて、自己満足に浸り、それを忘れた気持ちになっているだけだ。

「違う。我々は真の愛を実践しているのだ!」とあくまでも言い張るつもりなら、ケニヤの人がどうしてUCIだかのセミナーを求めているのか、何を求めているのか。

それに対してUCIは何を与えることができるのか。

その結果、ケニヤの人達はどうなるのか。そしてそれが最初にケニヤの人たちが求めていた内容を満足することになるのかどうか。

さらにはそれが地上天国の実現にどう関係しているのか、きちんと説明してみてくださいよ。


そんな事ができるのなら、ですけどね。

追記
「ケニヤでの活動は、彼らがお金を払ってまで実施したものです。つまり彼らが必要としたからわれわれが行ったのです」とか言う人がいると思うんですよね。

私が聞きたいのはプロセスとかの話ではなくて、彼らが本当に期待しているもの、ほしいものは何なのか、それを君達UCだかUCIだか(もうどっちか分からんけど)の人たちは、その本当に求めているものを満足してあげられるのか、という事を聞いているのです。

それは何ですか?そもそもUC(またはUCI)の人たちはそれが何かきちんと把握していますか?UCはそれを提供できるのですか?

ということ。