えーと
拉致監禁反対!信教の自由は憲法に保障された個人の権利だ!と叫ぶ人たちがいる。
そんな彼らの活動や主張に批判の言論を展開する人たちに対して、信者の皆さんは、とても不可思議な事に、「書くのをやめろ」と主張している。
君達は、自分達の信教の自由は保証しろと叫ぶのに、表現の自由は無視するのかね?
表現の自由という権利を行使したいのなら、別の場所でやれば良いとか言いますか?
それなら駅周辺とかで伝道したりするのもやめて、別の場所でやってもらえませんかね?という切り替えしが可能になるのだけれども、その辺、どう考えるのかな。
自分達の権利は主張するが、相手の権利は認めないとは、これまたなんと身勝手な。
どうしてそんなに無茶苦茶な論理を平気で展開できるのか私にはまったく理解できません。
UCの人たちは、誰も矛盾を感じないの?
・・・まあ、感じてたらあんなバカな発言したりせんわな。
自分達が権利を主張するなら相手のも尊重するべきだ。
「このブログは気分が悪いから見たくない。出て行ってもらいたい」と君達が言うなら、私達は「UCの人たちは気分が悪いから見たくない。日本から出て行ってもらいたい」という事ができるということだ。
なんで、君達の気分だけが最優先で保証されて、他人の権利は無視されても良いと考えられるのか?
君等、一度、本当に真剣に考えた方が良いと思うよ。
こんな態度で、世の中の人たちに受け入れてもらおうと考える事自体が、無茶苦茶だろう。
本当に本気、マジで、誰か何か考えて発言したりしないのかな?
教育部長とか、教会長とか、こういう事は考えないのですか?
君達の仲間が他人の人権無視をしているのを放置しつつ、自分達は世の中に受け入れてもらえると思えるの?自分達のみ言を強く雄雄しく述べ伝えていけるの?
訓読の旋風が吹き荒れる?
ひろなおさんのグローブを気持ち悪いとか言っている暇があったら、まずはその君達の姿勢がどれほどおぞましいかを正確に認識する事が先だと思いますよ。
※注意
私は、無条件に君らに日本から出て行けとは言ってません。(少なくともこの記事では)
君達がブログ村で人権の行使をやめろという「なら」、君らに対しても同じ事が言われるという可能性の議論をしているわけだから。
その辺の事を読み取れずに意味不明な方向に議論を発展させるような事は、厳に謹んで下さるようお願いいたします。。。。
(ってか、そんな議論が巻き起こるほどの人数が見てないから、議論なんかおきないわな)
追記
自分達に反対する人の意見を読んで気持ち悪いと書いた人をまともだと言いやがった奴がいる。(表現は違ったかも)
それなら、私が韓国の人たちの行動を見て、「こいつら無茶苦茶だな。日本に来ないで貰いたい。気持ち悪い」という事も素直な気持ちの発露だ。
「従軍慰安婦?いや、関係ないでしょ。彼ら統一教会信者の行動は気持ち悪いというのは素直な感情だもの。」
というのもOKになるのだけれど、それで良いんですよね?
「韓国人が日本に対してあのような態度をとるのは理由がある」というなら、「UCに私達が反対するのも理由がある」のですよ。
自分達に都合の良い部分だけ取り出して使うわけには行きません。
追記の追記
「反対派がそれを言うなら」、っていうんで、「君ら反対派が日本から出て行けというなら、私達がブログ村から君らに出て行けというのもありだよね」というのは成立しません。
なぜなら君達が先に勝手に日本に割り込んできて、怨讐を愛し、許し、この世からありとあらゆる争いと対立をなくして、平和と統一の世界を作りましょうと主張しているから。
だから、君達は反対されようとも、それを消化していくべき義務がある。それが教義なのだし。