KIB: kurogane in black

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真の愛(笑)2

なんか、UCブログ村の状況がもうグダグダですね。もはや誰が誰をドついているのか、訳が分からない。



でもね、こんな状況になるのは、最初から目に見えてるんだから、やるんだったら外部の人が入り込めないSNSにして内輪だけでやっておけばよかったのですよ。

また、そういうトラブルが起きる原因を皆で考えながら、UCとしてはどうやって対処していくのかということを学習する良い機会にもなりますしね。


仮にUCの閉鎖系SNSがどれほどグダグダな状況になろうとも、中での話を外で書かない限りは、メンバー以外の人には関係ないことです。

これも数日前にここでも書きましたね。


そうすることで、いわゆる光言社の小林社長が言うような「リテラシー」だって訓練することができたかもしれない。


小林社長は新聞社でリテラシーの訓練を受けたということだと思いますが、そんなの食口はもちろん、一般の人だって新聞社レベルできっちりと文章を書く訓練を受けるというのは簡単ではないでしょう。


そういう人に「リテラシーの訓練をしましょう」とか言ったって、これまた「だから、具体的にどうしろというのさ」という話になるわけですよ。

小林社長は、文章でメシを食う職業についていたんだから、職業訓練としてリテラシーの訓練を受ける事ができた。

他の人、特に食口のメンバーは、じゃあどうやってリテラシーなるものを身につけるのか?


光言社の本を読めばそれが身につくのなら良いですが、これまでのブログでの状況から判断すると、光言社の作る本の読者とほとんど重なっていると思われるブログ村の村民の皆さんにはリテラシーが身についているとは言いがたい。


だいたい、仮に光言社が、たとえば「食口必携!リテラシー読本 - これを読めば、あなたも文章で困らない」なんて本を書いたとしても、それを読んだだけで身につくような事はありません。

リテラシーに限らず、どんな能力であってもね。


だからこそ、訓練が必要なのでしょう?

やってみて、他人のチェックを受けて、考えてまたやりなおしてというサイクルを繰り返しながらようやく身につくものなのです。

閉鎖系SNSというのは、だからリテラシーの訓練の場としてもつかえるのではないかと思ったりするわけですよ。





また閉鎖系SNSであれば、そこでUCが外部に公開するブログ村のようなものをつくるときにはどうすべきかについても議論して、みんなできちんと考えて、合意ができてから公開することができたはずでした。


たとえば反対派や元信者が入ってきて、UCの主張と異なる事を主張し始めたらどうするのかとか、いの一番に考えるべき問題でしょう。

と私なら思うわけですが。

こんな公開の場に君達がのん気な主張を繰り広げたらどうなるかぐらい、今、日本においてUCがどういう立ち位置にあるのか認識したら分かるだろう。

まさかそんなことも考えていないのか?

UCは日本では反対されている、迫害されている、サタンが邪魔しているとか言うじゃないですか?

それなら、そういう人たちが、皆さんの行動に対してどういう反応を示すか、誰も考えないの?





しかし、そんな事は何も考えてないから、単なる仲良しクラブで食口があつまって楽しくやれたら良いよねなんてのん気に始めてしまう。

実際に反対派が入ってきたときには、感情的に反応してしまって「サタンよ立ち去れ!」なんて馬鹿みたいな発言をする教会長がでてきてしまう。

さらには、そんな教会長の発言に乗っかる形で出て行けコールをするメンバーもでてくる。

反対している人たちは、それなりの目的を持ってやってきてるのだから、出て行けと言われて出て行くわけがないでしょうが。

そして混乱には更に拍車がかかることになる。




だいたいこの程度で感情的になって「あっち行け!」とか、どこのガキの喧嘩だよと。

これで世界中のありとあらゆる分裂と争いをどうやって止揚統一するのかと。


もうこの話題だけでここ数日ずっと言ってるようなものですが。





先日、話題になった「本部職員も参加したネット対策戦略会議」みたいなものは、本来であれば、このようにして、根本的に今の状況をどのように改革していくのかを議論すべきでした。

「今のブログ村の状況は問題があって、困った奴が暴れている。こいつらへの対応が必要だ。我々は誰々さんと誰々さんのブログを推薦する」

なんていうのは論外なんですよ。








というかさ。ネット対応戦略の前に、そもそもUCの存在意義や、活動目標はいったいどこにあったのかという事から、きちんと考え直すべきだと思ってますけども。

「為に生きる」とは、毎日の生活で具体的に何をどうすることを意味するのかとかね。




君達の中で、「私達が敬愛してやまないお父様に、こんな事を言われるのは我慢できない」とか言う人がいますが、こんな間が抜けた発言もないと思いますね。


私のような元信者だった人間だって、基本的に文鮮明なる人物なんか基本的にあった事ないし、分からないんですよ。


普通の人たちは何を見て判断するのか?


それは君達、文鮮明に従う者たちがどういう行いをしているのかを通じて知るわけでしょう?



創造原理のいの一番に出てくる内容そのものではありませんか?




で、君らがこんなグダグダな状況を目一杯引っ張りながら、真の愛なんかを語り、お父様に従おうと語る。



こんな程度の奴らの頭を取る人間がどの程度が、推して知るべしだな、と思うのがほとんど当然だと思うのですが。




あらためて言いますが・・・


・・・真の愛ね。。。(笑