KIB: kurogane in black

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地の塩 世の光

昨日の記事で「乞食が隅の頭石になったと言われるほど、立派な人格を磨き上げ」と書いた。

この文章について、解釈のしかたによっちゃ、私が書いた意図とは違う意味になるなと思ったので、付け足すことにしました。

この「立派な人格」という表現は、たとえば光言社の小林前社長が語っていた、周りの人間から尊敬を集める他人を伝道できるような人として認められること、という意味もありうる。

私が最初にUCの教義に見たのは、そこに目的をおいた「周りに認められんがため」の信仰ではない。

地の塩、世の光とマタイ書に書かれているような、地の塩、世の光とならざるをえない人格が涵養されることを期待していた。

人から認められることは結果であって、それを目的としたり、それを目指して信仰するのではないという事。
目的なのか、結果として偶発的にそうなるのか。この違いは大きい。

日本人の研究者にとってはノーベル賞は結果であって、目的は人類の貢献だが、某国の人にとってはノーベル賞が目的化しているかのような行動をとるのと似ている。

人から尊敬を勝ち得るのは結果。しかし、今のUCの人たちは人からの尊敬を勝ち取ることが目的化している。


だから50年も訓練を受けたのなら、中にいる人たちは、たとえ自分が隠れようとしたって、「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。」との聖句のごとく、世の中を照らすあかりとなっていなければならない。

しかし、目的があさましいのでそんな風にならないのは、あれだけ国をあげてノーベル賞を叫びながらもらえないどこかの国と同じなのだ。

その結果として、UCにはいみじくも「みんな」氏が言ったように、今だに「集められたのは乞食ばかりで、50年たっても乞食しかいない」状況。

トップに立つ人間も、表に出すなんてとんでもなくて、できれば枡のしたに隠しておきたいような人間しかいないではないか?

その結果、何が成就されたのかと言うと、皮肉にもイエス様のみ言がその如くに実現した。

もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。
もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
マタイ5:13

 

そんな外に捨てられて人々にふみつけられるだけの人ばかりが50年分もたまりきったようなごみ箱みたいな場所に、いまだにとどまり続ける理由があるなら、説明してもらいたい。

また、ごみ箱に入っていない新しい人たちに、同じごみ箱仲間になるように勧める理由も教えてもらいたい。

塩味がなくなった塩や、枡の下に隠しておきたくなるようなくすぶりをあつめて、「億万歳」を叫ぶ団体にどのように栄光があるのか、説明できる人がいたらやってみてほしい。

また、こんな団体にいて、人格を磨くことが出来て、他人に塩味を染み渡らせ、世の光となるような認められる人格を(小林前社長が言うように)作り上げることが出来るなどという、非合理的な方程式の解を示してほしい。


さて。改めて尋ねてみましょうか。今のUCのどこに希望があるのでしょうか?