KIB: kurogane in black

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日本帝国=悪の帝国? (元記事の投稿日:2005年7月16日)

楽天ブログが閉鎖されてしまいました。削除されてもバックアップはとってるので、復元はできます。

以下、元記事は楽天ブログに2005年7月16日に公開したものをそのまま復元した文章です。
参考:元URL(現在は表示されません。)
http://plaza.rakuten.co.jp/kuroganeyashiki/diary/200507160000/

<以下、元記事の復元内容です。>

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JETさんというかたから

>少なくとも、韓国を植民地にしていた日韓併合時代の36年は統一原理や韓国人の言うように、迫害と虐待を繰り返してきたのではない、というネタはすでに上がっています。

>韓国を虐げて、彼らの言語や名前、財産、宗教などを奪ったなど、とんでもない捏造史観であることはもうあちこちにありますので、ここで取り上げることはしなくてもよいでしょう。

について、もう少し知りたいのですが。おしえていただけませんか?


という依頼を受けました。



この日韓併合時代は、エジプト苦役時代ローマ帝国迫害時代と比べるまでもなく、現代に非常に近い時代です。

つまりそれに関する資料も非常に多い。あまりにも膨大にあります。

まずは「韓国 捏造 歴史」 でもなんでも適当な検索語をいれて調べれば死ぬほどでてくるでしょう。

そして時代が近いために、いくらでも一次資料もあるし、その解説も見ることができる。比較対照も可能です。

但し、それだけで終わりではあまりにもつれないでしょうから、一つだけ、面白い話を紹介しておきましょう。


統一教会文鮮明は、何度か監獄に入った経験があります。
日本が韓国の愛国者を投獄して拷問・虐殺するために作ったとされる西大門刑務所にも、文の爺様が収監されていたことがあります。

統一教会ともこのような縁があり、そして少なくとも金泳三大統領の時に、韓国の「(独立運動の)聖地」として指定されていました。今も「独立運動公園」となっているはずです。この刑務所を取り上げてみましょう。



日本帝国主義による虐殺の現場-西大門刑務所

ここのページを見ますと、

大韓帝国末期の1908年、日本政府により建設された「京城監獄」が最初。1912年、麻浦(マポ)にもう1つ刑務所ができたことで「西大門監獄」に改称。

西大門刑務所」という名称になったのは1923年。以来、この地は約80年に渡り、韓国の近代および現代の激動の歴史を象徴する、民族の受難の現場となりました。

特に戦前、「西大門」といえば抗日独立運動に対する日本政府の弾圧を象徴する地名でもありました。戦後も刑務所として使用されていましたが、ソウル郊外に移転し、跡地が「西大門独立公園」として歴史的に保存されることになりました。



と書いてあります。


1910年に日韓併合したのにも関わらず、1908年に日本が建設したっていう変な事については後で触れます。

このページでは「民族受難の現場」と書いてますが、そもそも独立運動なんて、「国家反逆罪」なわけですから、日本でも革命を志向していた共産党なんかは非合法でしたし、取り立ててて朝鮮半島の日本人を虐殺するためにあったわけではない。

さらに、ここには

一度ここに入れられたら生きて出て来ることはできないと言われた所で、多くの韓国人が厳しく残酷な拷問と監獄生活の末に、あるいは処刑によって、ここで命を落とした。




と、いかにも悲惨な監獄であったかのようなことを書いてあります。


ところでこの西大門刑務所ってどれくらい大きかったかといいますと、全景はこんな感じです。

 

西大門刑務所全景(ミニチュア)


当時としてはけっこうな規模の刑務所だと思います。

ここに36年もの間、片っ端から韓国の愛国者を放り込んで、悪逆無道の限りを尽くして拷問し、死に追いやり、そして一度入れば生きて出てくることはできないなんて、いったいどれくらい虐殺してきたんだ・・・日本帝国は・・・

さて、どれくらいになるのでしょうか。


このページなんかを見ると、

日本は第二次大戦敗戦前、これらの証拠書類を焼却破棄し、施設は埋めて消し去った。

 この「刑務所」も戦後、韓国民の熱意と努力で再発掘し整備されてきた。従って、決して十分とは言えない資料・展示だが、「日帝」による植民地支配の過酷さの一端を感じていただければ幸いである。


と書いて、いかにも刑務所の官吏達が、自分たちの悪行を消したかのように書いてありますが、日本は人治国家ではなく、法治国家ですから、監獄の中で適当に処理していようとも、裁判の記録などは全て残っているし、なんでもかんでも無茶苦茶をしたというのは彼らの勝手な想像が過ぎます。

だって死刑囚でもないのに、刑務所で勝手に人が沢山死んだら、幾らなんでも問題になるでしょう。

さて、それでは日本帝国の暴行の為に犠牲になられた方はどれほどいらっしゃるのでしょうか?

こういう写真があります。

◆追悼碑(チュモビ)
祖国独立のために日本の侵略に立ち向かい、西大門刑務所に投獄され亡くなった人々の追悼碑。

 

追悼碑(チュモビ)写真

えーっと・・・

これだともう少し解像度が高ければ、一人一人の名前が判別できそうですが・・・

ま固有名詞はいいとして、人数は数えられそうですね。


ひい ふう みい よ いつ む・・・

90人のように見えますが。




こんなに大きい監獄で拷問と虐殺を36年も続けていたのに、お亡くなりになった方は90人って・・・


90÷36=2.5人/年


これって・・・ただの刑法による死刑囚なんじゃないんでしょうか?

いや拷問があったのかもしれませんけれど、日本が韓国の愛国者を投獄し拷問・虐殺するためのものっていう主張は、本当ですかね?

そもそも、日本帝国が韓国を併合する前の1908年に韓国に作らせたって、どういうことなんでしょうか?

朝鮮半島の監獄事情のあまりのひどさを改善しようとした日本>

このページを見ますと、1908年に、日本帝国が韓国独立の志士達を投獄し虐殺するために、この監獄を作ったということが、とんでもない勘違いであることがわかります。

ちょっと長いですが、引用してみます。

監獄(刑務所)の文明化

朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。食事はおかずなしの雑穀のみであった。さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。

国分三亥(こくぶさんがい、1908年に「旧韓国」の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったと、次のように回想している。
『監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。(1908年になって)日韓協約の趣旨に基いて(旧韓国政府は)司法機関を創設して監獄は司法部に所管を移され…たけれども、……(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、……獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました』(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように思い出している。

『狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めてゐました。1坪に15、6人も押込むありさまで、在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので1日に)3、4回交替にて横臥せしめた。作業上の設備も被服交換の準備なく、…終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした』(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

しかし、日本の努力で1910年末にはすべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を3分の1の「約5人以内」に下げたのである。そして、1913年頃には、それが「約2.9人」まで大改善された(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)。「畳2枚に3名」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、1919年からの新しい総督(斎藤実)のもとで230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。

(中略)

当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。

(後略)



もう、コメントの必要も無いのではないでしょうか。

日本は1910年に日韓併合を行いました。

しかし1905年に乙巳保護条約を結んで韓国を保護国とした時から、既に、刑務所の待遇すら改善するために努力をしてきたことが分かります。

それも劇的に。

それは地獄から天国のように・・・・

これ以上のことは私は書きますまい。

あとは同じような形で、色々と調べ読み、判断して下さい。
とても韓国人を収奪し、歴史上見られたことのない迫害と虐殺を加えたという主張が妥当な物か、明らかになるでしょう。