KIB: kurogane in black

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やめた直後にずっと聞いていたアルバム

以前、「一度なのか二度なのか?」で書いたことだが、世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)の信者になるというのは、一度、死の淵を超えていくことを意味するし、世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)の信仰を捨てるのは、もう一回、死の淵を越えてこなければいけないに等しい。

改めて強調するけれども、私は拉致監禁にはありとあらゆるものに反対する立場だ。

しかし世の中には、一度、あちらの世界(世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)の信者のみがいる世界)から、こちらの世界に戻ってこさせようとすれば、強制改宗のために拉致監禁すら辞さない/それが必要だと考える人も多少はいるほどなのだ。

その意味で、信者の皆さんが、米本さんに対して、「これは信者でなければわからない」といった表現をしてしまうのは理解できなくはない。死の淵を越えて初めて見える世界もあるからだ。


そして同じことは元信者と統一教会信者の間にも言えて、統一教会を辞めた立場で言えば、統一教会を辞めなければ見えない世界がある。

「あちらの世界」には「あちらの世界」の掟があり、それは当然ながらこちらの世界とは相いれない。
そんな世界を往復して通常の人間が平気でいられるわけもなく、統一教会を辞めた直後は、私は壊れていた。

命がけで信じた信仰を捨てて平気でいられるはずもなく、また、たちまち必要な毎日の生活の糧を得るために就職はしてみたものの、「あちらの世界」での掟やら習慣が、ことごとく周りと対立を引き起こしては、それがさらに精神的なダメージをもたらし、壊れた自分がさらに壊れるような感覚に苦しんでもいた。

そんな状況で迎えた初めての年末。ベートーベンの第9を聞く気にはならず、ジングルベルすら騒音に聞こえたほどだった。

そんな中、暇さえあれば浸るように聞いていたのが、同じような境遇で共通項を感じさせる歌手の歌だったのは、必然かつ自然であったのかもしれない。

その歌手は、その時は「壊れた」感覚を与える歌手ではなかったのだが、時折ニュースになる歌手本人の奇特な行動の繰り返しや、最近までの一連の「振れ幅の大きな行動」から鑑みるに、彼女もまた壊れていたのだろう。
そんな「壊れた自分」の歌に身を浸すことで、ようやく自分のおかしさと折り合いがつけられていたともいえる。


2004年に出された彼女の「the ultimate collection 」は、全部で15曲、収録されている。不思議なことに曲順を入れ替えると、自分が統一教会に来てから熱心に活動し、その後、悩み、戸惑い、決断してやめて帰ってくるまでの折々の心情が歌いこまれているように感じて、何度も何度も何度も繰り返し聞いた。

いつ頃から彼女の歌を聞かなくなったのか、メールや日記帳などをめくってみたら、ちょうど2006年が明けて少したったぐらいからだった。

今から丁度10年前。あれからもう10年になるのか。


いろいろあって、体調が悪くなったり、治療薬のおかげで改良したり。

年始も松の内が明けたことだし、壊れていた当時の状況を振り返りつつ、10年ぶりにこの曲を聞く。

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