コスタ氏が米本氏のブログで、仁進氏の事について書かれた英文のメモが、日本人が書いた文章のにおいがするとかしないとかコメントをしている。
これに対して、例の「おもろいやん」のブログに該当コメントをつけた千尋さんという方が、「アメリカ人が書いたもので、日本人ではない。メモとして書かれたものなので文法に気をつけていないだろう。このレベルの英文を日本人がざっと書けるというなら、コスタ氏は英語がわかっていないのではないか」と厳しいレスをつけた。
コスタ氏はこれに痛く傷ついたらしい。
「アメリカに22年在住かつビジネス経験もある」とわざわざ書いた。
うーんと。
「その文章が日本人が書いたもの」っぽかったら、何か問題があるのでしょうか?
あるいは仁進氏の事件は無かった事になるのでしょうか?
リーダーに日本人はいるが流暢だとか書いているのを見ると、「この文章は誰が書いたものか」と言いたいのかもしれないけども、いずれにしたって、問題はそこではないでしょ。
これは米本さんも指摘しているけども。問題は内容が事実かそうでないかだと。
別に米本さんや千尋さんの肩を持つとかではないけど、これは米本さんの指摘が正しいでしょう。
ここでの問題は、その英語で書かれた内容が事実かどうかということ。
また、千尋さんの言葉が正しいのなら、その文章を書いたのはアメリカ人でしょう。
そのアメリカ人も、ニュースを聞いてショックを受けて気が動転した状態で書いたのかもしれないです。
あわてて書けば日本人だって
「その2人は英語で柳著に(原文ママ)説教しました」
とか、
「英語がわかっていないとアメリカ人から言われますと言葉でないでが(原文ママ)」
とか、おかしな日本語を書く事だってある。
「日本人ならここで「柳著に説教」なんて書かない。何度読んでもおかしな日本語だ。食べ物が喉に引っかかってしまったままのような感じを受けています」
と言われる事だってあるでしょうよ。
違うんでしょうか?
自分の日本語だっておかしいのに、ましてこんな爆弾発言を聞かされて動揺していたかもしれないアメリカ人信者の英語がおかしいとか、それっておかしいよね?
そして千尋さんの立場では、彼女(多分、彼女だよね?)の知り合いのアメリカ人が書いたものを「日本人がかいた英語のにおいがする。おかしい」なんて言われたら、カチンと来るでしょう。
そして、千尋さんが「私の友人であるアメリカ人の英語がおかしいなんて、日本人のあなたに言われたくない」と思っても不思議ではない。
相手の事情を察する事、相手の立場を考える事が、普段、コスタさんが自分のブログで書いている内容の実践なのではないですか?
こういう時に、「俺は22年もアメリカで暮らしビジネスもしているんだぞ」と言いつつ「アメリカ人に言われたら言葉がないが、日本人に言われたら返す言葉がありません」などと慇懃無礼に対応することは、神様と対話しつつ真の愛を実践することにつながっているのでしょうか?
いつも彼の書いている文章には首を傾げてきたし、おかしいと思ってきたけど、こういうところで馬脚を現してしまうのは、(彼にとって)非常に残念ですねと申し上げておきましょうか。
いずれにしても、あの英語を書いたのが日本人かそうではないかとか、書かれた英語は日本人が書いたもののようなにおいがするとか、今回の問題の本質とはまったくもって無関係。
エデンの園でアダムとエバが堕落したとき、地球の反対側で雨が降っていて川が増水した事以上に無関係。
いや。もう少し近いかもしれないな。
エデンの東あたりでジェームズ・ディーンが・・・いや違った。エデンの西側あたりの川ぐらいかもしれない。
比較とか喩えが変だって?
そう。
それぐらい荒唐無稽な事に夢中になって、プライドが傷ついて「俺は22年アメリカ在住だぞ」って、どんだけ「真の愛なんだよ」っていう話さ。
ことの本質を考えたとき、全然問題でもなんでもない無関係な事をわざわざ持ってきて大騒ぎして、挙句の果に「おれは22年もアメリカ在住だ」という事って恥ずかしくないかと。
最初からそういう冷静さがあれば、こんな状況にはなっていないのですけどね。
何にしても、残念なことでした。
本質的な問題に焦点を合わせるのは大変ですよね。