KIB: kurogane in black

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あと40日の間におきそうなこと

いつも隣に神様がいらっしゃる某公職者のブログから。

<引用開始>
「真の父母様に縁を結んだ人」
そう考えたとき、
過去にもたくさんいたのだと思います。

多くの負債を抱えている人もいると思います。

しかし、父母様は百も承知というか、
それをわかって今回特別な恩恵を与えようとしています。

参加させるかさせないかは
私たち人間の判断ではなく、
天が決めることであると思います。

そういう意味で、
父母様と縁を持つ人すべてに
責任を持とうとされているわけですから、
そのことに心から感謝して
備えていくと同時に
多くの人を参席させるべきであると思います。

<引用終了>





こういうのを手前勝手な理屈と言うんだね。


まず、引用の第4行目(改行をいれたら第5行目)の「多くの負債を抱えている人もいると思います」の「負債」がどういう負債なのかちょっと分かりにくい。

この人のポジションからすると、「借金を多く抱えている」という意味ではなく、ほぼ間違いなく「不信仰のゆえにご父母様の前に出られない心理的な負担」という意味で使っているのでしょう。

これは、「それをわかって今回特別な恩恵を与えようとしています。」と書いていることからも裏付けられると思う。

もし、借金が多くてこれ以上献金できない信者がいて、そのことを分かって恩恵を与えるなら、新たに献金を求めることなど無いだろうが、そういう意味では使われてないのだから、信者が文鮮明夫妻の前に出られなくなっている心理的状態を抱えていることをご存知でありながら、と解釈するのが正しいと思う。





信者になったが教会をやめた人が、「この公職者が言うところの負債があるために真のご父母様の前に出られない」人が100%でそれ以外はいないのなら、この人のように言ってもよい。

しかし、その認識は大いに間違っている。


公職者が、信者がどうして辞めてしまったのかということを正確に把握できていないようでは、これからも同じ理由で教会を離れる人がたくさんいることを意味する。


それも問題だけれども、さらに問題なのは、やめた原因が「真のご父母様の前に来られないのは真理的な負担感のせいであって、それを許すから来い」みたいな、なんとも上から目線で語っている事だ。


繰り返しになってしまうのだけれども、本当に教会に来られなくなってしまった理由が「真のご父母様の前に出られない心理的な負担感」のせいであることが100%なら、このトークが功を奏する可能性は高い。


しかし、もし全くもって違う理由で教会に来なくなった人に、こんなトークで基元節への参加を呼びかけたら、ますます教会から遠ざかる理由を提供するだけでしかない。



もし本当に、今現在教会に残っている食口として、真のご父母様が望まれている元信者も含めた基元節への参加を、なんとしても実現したいと考えているなら、せめて次のような内容は最低限、やっておく必要があるだろう。

1)原因・理由の把握
やめた人がそれぞれどうしてやめたのか、どういう理由でやめているのかという事をきちんと把握することも必要だ。

2)教会を辞めた人をつくった原因の除去
そして、辞めた人が、「辞めた判断を覆して、もう一度教会に戻っても良い」とかんがえるような教会をつくっておかないといけない。

さらに、ここまでできていたとして

3)トークする相手が辞めた理由を正確に把握し、その問題が間違いなく解決されていることを明らかにできる

ところまで行ってないといけない。

そこまでやって必死に訴えても、元信者が基元節に参加しても良いと思う確率は半分にもいかないと思いますけどね。



少なくとも私は、間違っても行かない。

たとえばその日に海外出張になり、私がのった飛行機が、たまたま偶然にも韓国上空を飛ぶことになり、韓国に差し掛かったとき清平の聖殿のすぐそばに不時着でもするなら、物理的にはその場所にいることになるかもしれないけどね。

それでも、行事に参加することなんぞ、御免蒙る。

(というかそんなケースでは、私は生きてないだろう)


ま、冗談はさておき、私について言うなら上記の1)~3)を教会ができるなどということは絶対にありません。

というかそもそも教義が間違いだと思っているのだから、直すのなら教義から直さないといけない。

そんなの無理でしょ。



大体、辞めた人がなぜ辞めたのかという理由なんざ反対派や元信者のブログでも腐るほど書かれているけど、そういうのは「サタンが入る」と言って、わざと避けて通るような奴に、「辞めた原因の究明」なんぞできるわけがないだろうよ。


で、行き着くところがこの公職者のように、「ご父母様に負債があることを分かっていて、今回特別に恩恵を与えると仰っておられます」などと、なんとも押し付けがましい発言をする事になるわけだ。


原理講論の創造原理の一番最初に引用されている聖句、ローマ人への手紙 1:20を改めて引用しよう。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。


これは神を統一教会に置き換えてもそのまま当てはまる。


統一教会の見えない性質、すなわち、統一教会の歪んだ力と性質とは、教会創立このかた、その活動において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。




神の性質は美しい自然の中に、この世をこの世としてあらしめているありとあらゆる法則の美しさの中に認めることはできる。

しかし、統一教会の全ての活動の中に、美しさを見つけることは難しい。

トルエンジェルスは素敵だと私も思うが、潔癖な運営によって成立しているのならという条件付での話し。

その運営や、少女達の笑顔の裏側できなくさいことをやっている人たちがいるなら、罪の無い少女達の美しい踊りは、腐った泥水にさいた徒花でしかない。




公職者ですらこのレベルなのだ。


こんな人が指導をする組織が、あと40日で何ができるのだろう?

きっと、教会から遠ざかっている人たちに、この公職者のようなトークで、強引に基元節への参加をプッシュすることでしかないだろう。しかも本人は、それが正しいと信じているのだから性質が悪い。


ホント。UCっていうのは社会の迷惑でしかないと思いますけどね。ここまで来ると。