KIB: kurogane in black

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社会性の欠如とマインドコントロール:どちらも根は同じ

米本氏のブログ村を眺めた感想について書かれた記事を受けて、民度や社会性についてブログ村の住人の何人かも触れている。

米本さんはブログ村という枠組みと信者の活動について、「信者はマインドコントロールされている」という誤解の払拭には貢献したが、社会性の欠場、民度の低さを露呈するという問題も浮かび上がらせたというようなことを書いています。



そうかなぁ。私にはそうは思えません。どちらかというと、これらの現象は根っこで繋がっている統一された一つの問題だと思います。



まずマインドコントロールからはいります。

米本さんが、信者がブログを書くことについて賛成する理由として、社会のUCに対する認識がマインドコントロール論によって過度に悪く認識されていることが変わることを期待してとのことだった。

それはブログ村の状況から成功だと言っているが、本当にそうだろうか?



私が思うにはマインドコントロールについての認識がかみ合っていないと思うのだけれど。

「マインドコントロールされた人間の集団=金太郎飴集団」と定義するなら、確かにUCの人間は画一化されたロボットではないのだから、マインドコントロールされていないと考えるに違いない。




しかし、自分の子供と粘り強く向かい合って対話を続けてきた人や、やめた人間からすれば、どうだろう?

彼ら信者となった子供たちは核心的な部分で社会とは相いれない「統一原理」なるものを譲らないし、社会に反していようが神のみ旨にかなうならば、それは善であると考えている。

つまり社会とは折り合うつもりはないし、交流しようとも思っていない。社会や世界がUCの指導の下に入るべきだと考えており、そこを譲るつもりはないのだからいわゆる「交流」なぞ成立しようがない。

彼らは神の子たちで、社会一般の人たちはサタンの子なのだ。

こんな話は社会の一般の人たちが納得できるような合理的な説明ができるはずもない。
どうしてもその理屈に納得したいのなら、統一原理を受け入れるしかない。


こういう態度は、外から見たらマインドコントロールされているかのように見えないだろうか?


マインドコントロールされている=金太郎飴になると考えるのなら、金太郎飴ではないから、マインドコントロールされているとは言えない。

しかし、「金太郎飴ではないからマインドコントロールされているとは言えない」とは、あまりにも楽観的かつのんきすぎる見方だと思います。

米本氏は、kokoroさんがブログ村を見ながらいまだにマインドコントロールを主張する、と否定的な言い方をしている。

この両者の食い違いは、マインドコントロールを社会と相いれない理屈に合わないものを真理と信じ込む態度を指すのか、金太郎飴的なロボット人間の事を言うのかという違いに由来するものではないのでしょうか?



だいたい教会の命令で霊感商法をやっていたのに、いざ逮捕者が出たら「あれは信徒が勝手にやったこと」などというふざけた本部発言を聞いても心が離れないなどというのは、世間一般からすればどうみたってマインドコントロールされていると思われても仕方ないのでは?





念のため注釈をつけておきますが、(また今までにも散々書いてきましたかが)私はそもそもマインドコントロールを反対の根拠としては使っていません。

あくまでも、「普通の人が見たらマインドコントロールされていると思われても仕方ないよね」と言っているだけ、ということは強調しておきます。



ここでちょっとだけ脱線して、アメリカの心理学会が出した、UCはマインドコントロールしているとは言えないという意見書について触れておくと、あれはUCが伝道の初期にアプローチするすべての人間を母集団として見た場合、信者になって活動するまでにいたる人間は非常に少ないということについて触れているだけだ。

最後まで残って信者になった人が社会性を欠如させ、日本で霊感商法をやってでもお金を献金させようとするまでの異常な状況にまで陥った信者の様子を観察して出された意見書ではない。


あの意見書を基に、マインドコントロール理論は心理学会で公式に否定されていると主張するのは、あまりにも一般的すぎているのと、また日本の異常な状況は考慮されていない点で、参考にならないと思う。





次に社会性の欠如というか低さについて。

米本氏はUCの人たちが社会と交わっていないことからくる社会性の欠如と、そこから派生する民度の低さを本部のIT担当者の言葉を引いて述べている。


しかし、そもそもUCには教義として社会と交わろうなどと言う考えはこれっぽっちもないのだ。


教義にないものを、その教義を中心として成立した団体の行動の中に見つけ出せるはずがない。


徳野会長がコンプライアンス宣言を出したのは退任の時だった。つまりは自分は守らせる立場になくなる時においてのみ可能であった発言だったのです。

再任されたらコンプライアンス宣言はどこへやら、金額を決めた献金要請も無理な伝道もさせていないなどというかつての退任の時の発言なんぞ、まったくなかったのと同じ状況なのは当然のことだと考える。




徳野発言なんかを後生大事に掲げる人が食口もたまにいるけど、あんなもの守るわけないじゃない。

食口のくせして寝ぼけているのかなと。



UCに社会性がないことについて、たとえば宗族的メシアという形で社会とかかわっているとか主張する人もあろうが、単に伝道の拠点がビデオセンターや教会でなくなるだけで、結局は社会の人をUCに従わせるための方便が変わっただけに過ぎない。

彼らにはUCの下に入るかどうか、信者になるかどうか以外の社会との交わりはないのだ。


実際、創始者亡き後、ビジョン2020とか言って出された活動をみても、UCは社会に対して何をするのかについて述べた部分は、昔のUCと何も変わっていない。

極端な話、『伝道しましょう』。これだけだ。UCの教義や活動をわかりやすく説明するための教材を開発するとか言っているが、阿呆抜かせ。

本気で社会と交わり、社会に対して貢献しようと思うなら、伝道して信者を増やすことで何をしようとしているのか今すぐここで述べてもらいたい。



信者が今の2倍になれば、あるいは20倍になれば何がどうなるのか?

その時UCは社会に対して何をどうするのか?



この質問に対して即答できないようでは、いったいUCがこの社会に存在している意義はなんなのか、信者自身が理解していないことを物語るだろう。

信者はもちろん、幹部でも語れる人なんぞいない。

幹部が社会との関わり、社会におけるUCの存在意義と価値を語れないのに、信者が社会と友好な関係を気づくことなどできるはずがない。

米本氏はUCの信者には社会性がないと言い、本部のIT担当者は民度が低いと嘆くが、そもそもUCに社会性などという語彙はなく、したがってその当然の帰結として社会から見て高い民度(これは非常に変な言葉だが)を示すような姿勢を期待することもできまい。


裏を返していうなら、UCの人が郭グループだとか、分派だとか言う相手にたいして取る態度は、そのまま社会に対してUCの信者が本音で思っている姿勢だと言って良い。
反対牧師や反対弁護士はそれらUC本家筋に仇なす敵と同じなので激しく対応する。

(積極的に反対しない)一般の人たちは金づる、人づるだと思っているからきれいごとだけを言っているだけに過ぎない。


結局、UC信者は社会と交わろうと思っていないということでしょう。

ここで、「社会と交わることについて教義にない」とはどういうことか、補足として説明しておきたい。



UCの信者、元信者であれば今更説明の必要はないが、この世は悪、社会=サタンと思っているのだから、社会と交わってはいけないのだ。交わってよいのは「復帰」のためのみ。

今はどうなっているか知らないけど、自分が信者だった時には、この世で買ってきたものは聖塩をかけてからでなければ教会内部には持ち込めなかった。

「この世のもの=汚れたもの」意識まるだしもいいところだろう。

社会とは、サタンに牛耳られた人たちで構成される悪なる世界であり、そこから自分たちの側に移ってきた神側の人間以外は人間ではない。

過日、聖塩をとんでもない金額で販売しているとかいうブログ記事を読んだような気もするので、いまだに聖塩は使っているのでしょうね。


また、これまた今はどうなっているか知らないけど、少なくとも私が現役だった時は実家に帰って3日以上いたらサタンが入るから3日以内で帰ってこいと言われていました。

「実家」じゃないんですよ。「我が家」でもない。

そこはサタンがうようよしていて、信者に付け入ろうとする場所でしかない。親?そんなのは真の父母ではない、だって偽りの父母なんですから。


そんなのは教義にはないって?いやいや。「真の父母」というからには「偽りの父母」がいることの裏返しでしょうが。

それは堕落したアダムとエバだって?

そういうのを詭弁というのですよ。実家に3日いたらサタンが入るとは、生みの親がいる場所=サタンがいる場所と同義でしょうよ。

少なくとも私が知っている限り、昔はそうやって「信仰指導」をしてきた。





米本さんは、UCの信者も同じ人間と思っているのかもしれないが、UCの信者は米本さんも含めて我々一般社会の人たちを「サタン世界の住人」扱いをしているってことですよ。


こうしてみれば、反対牧師に監禁されていたが戻ってきた人たちに対して、UCの信者は潜在的に「また悪魔の中につかってもどってきた人間」扱いしているのではないかという推論も成り立つ。

だから「生還してきた」はずの信者に対して冷淡な態度になるのだ。


ハリーポッターの世界で、純粋な魔法使いのサラブレッドの子供であるマルフォイがハーマイオニーに対して「mud blood(穢れた血)」と呼んだあの感覚に近いかもしれない。



もちろん、信者たちはこんな意見を認めないだろうし、実際の顕在的な意識にはないだろうが、教義が刷り込まれた意識の底には、こんな思いがあると言われても弁明できる人は少ないだろう。




ということで、米本さんや本部のIT担当者が嘆こうが嘆くまいが、そもそもUCの信者に社会性なんぞない。期待もできない。

教義にそんなことは書かれておらず、組織として社会とまともな交流をしようと思っていない以上、UCおよびその信者が社会性を身に着けることは期待できない。




そんな子どもと向かい合わなければならない親に対して、「マインドコントロールは似非理論です」とか「こんなに個性のある人たちを見ればマインドコントロールが嘘であることが分かる」なんて言われてもね。



全く答えがあさっての方向に向かってすっ飛んで言ってると思いますけどね。





さて。長々と書いてきましたが、結論を書いて終わりにします。


ブログ村を通じて、マインドコントロールが正しくないことが明らかになったというのも短絡的なら、社会性がないというのも短絡的な見方だと思います。

要はUCの食口は統一原理なる、この世には全く通用しない変てこな理屈を真理だと思い込み、社会と折り合うつもりもなく、また社会を見下してもいる。


これを親の立場からみたらマインドコントロールされれいるという言い方になり、米本さんみたいに第三者からみれば「社会性がない」と見える。


何のことは無い、どちらも食口の悪癖をそれぞれの立場で眺め、違う表現を用いているにすぎない。



統一教会の食口を、このような食口たらしめているもの。それこそが諸悪の根源だと思います。